七政四餘では、金星(太白星)が夫妻宮(7宮)に在泊している場合、夫婦はともに栄え、福の兆しが多いとされている。
しかし、夫妻宮の金星が戌(牡羊座)に在るときは、火剋金となり、火宿に与して相隣るは宜しがらずとされている。その場合は、配偶者が夭逝したり、終に美に非ずとしている。このように、惑星とその在泊する星座間で、五行の相生・相剋に基づく判断がなされている。
稀代の占術家・波木星龍師の著された「四柱推命の謎と真実」によると、「五行」とは木星・火星・土星・金星・水星の「五星」のことであると 断じられている。
古書「淮南子」の天官訓では、五惑星について以下のように述べている。
東方は「木」であり、その神は「歳星(木星)」で、「開花や豊穣」と関係がある。
南方は「火」であり、その神は「熒惑(火星)」で、「飢餓や兵乱」と関係がある。
中央は「土」であり、その神は「塡星(土星)」で、「領土の拡大」と関係がある。
西方は「金」であり、その神は「太白(金星)」で、「軍事や武器」と関係がある。
北方は「水」であり、その神は「辰星(水星)」で、「天候の不順」と関係がある。
とあり、「史記」天官書でもほぼ同様の内容で、明らかに「五惑星」と「五行」とが見事に結びつけられている。
さらに、もともと「五惑星」の発見があって、それがそのまま「五行説」に結びついたと観る方が自然であるとしている。
意外に思われるかもしれないが、唐代には運命判断法は西洋占星術が一般的であった。
唐代に、李虚中が生年月日の干支を、五行の相生・相剋に基づいて推命する方法を考案したが、「子平術(四柱推命)」の登場は、宋代まで待たなければならない。
シルクロード経由で、「七曜禳災訣」や「都利聿斯経」、そしてインドからの「宿曜経」が到来し、李弥乾などの占星術師が活躍した。
中でも「聿斯経」はギリシャ系の占星術で、当時のペルシャで占星術の聖典とされてきた、プトレマイオスの著した「テトラビブロス(四門書)」の翻訳書を下敷きにした占星術書であることが確かめられている。
「徐氏聿斯歌」という書もあり、これは後代に子平術(四柱推命)を創見普及した徐一族が占星術書を著わしている。
明代になると、「三命通会」で有名な推命家の萬民英は、一方で「星学大成30巻」を撰し、また推命家の水中龍も、その著作「星平会海」に於いて、占星術について論じている。
このような事実を知れば、四柱推命は西洋占星術の影響を受けて成立したと言っても過言ではない。
四柱八字だけで判断材料の乏しい子平術に「聿斯経」が教えたのがアスペクト(座相)の概念であり、特に三合(120°)であった。
ギリシャ占星術では十二星座の内の一星座(30°)を10°づつに三分割し、それぞれに惑星神を与え「デカン」と称した。これは、子平術の蔵干、算命学の二十八元の理論的な根拠となっている。
★ 波木星龍師著「四柱推命の謎と真実」から引用させて頂きました。詳しくは同書をお読みください。