七政四餘の原著「張果星宗」は、唐王朝の頃に著された。著者は張果。尊敬をこめて張果老と呼ばれ、わが国の七福神のように、おめでたい存在として八仙の一人に数えられている。
判田格先生は、この「張果星宗」をはじめ、「張果星宗大全」「聿斯経」などを完訳し、七政四餘の占術体系を解き明かし、これを現代に蘇らすと云う偉業を成し遂げられた。
張果老は、恒州(河北省石家荘一帯)の条山にこもり、齢数百歳と称していた。白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。
玄宗皇帝のとき、勅命により道蔵(道教の一切経)の編纂が実施され、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとした。しかし、張果は世事に関心が無く、またたく間に死んでしまった。
裴晤が死体に向かって玄宗の意を伝えると、死んでいた張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舎人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになったのである。
張果は、玄宗に老いていることを問われ、白髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。
また、玄宗が妹の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな法術を行った。
食事は酒と丸薬だけしかとらず、法術について問われると、いつも話しをはぐらかした。
玄宗は高力士に相談し、本当の仙人か見定めるため、張果に毒酒を飲ませた。張果は「うまい酒ではない」と言って眠ったが、死ぬことなく目を覚まし、至って元気であった。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光禄大夫と通玄先生の号を与えた。
張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。
天宝元年(742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。
Wikipediaより引用