アリス・ベイリーと秘教占星学


年少の頃、父の転勤で米国のシアトル市に住んでいた時、和田聖公師に父母とともに邂逅する機会がありました。この方は、とても不思議な人物で、その詳細は、当ホームページの「ご挨拶」の頁や、この「雑記帳」のなかに記しております。
和田聖公師は、ジュアルクール大師(以下DK大師)の弟子であり、DK大師は、ハイアラーキーとか白色同胞団などと呼ばれる、不可視の霊的組織に属される大聖であるとのことです。そしてこのDK大師は、米国人女性のもとへ毎日のように出現され、真理について語り、それを記述させたと語られました。
後で知ったことですが、その女性はアリスベイリー女史と云い、オカルティズム(秘教)の世界では有名な方で、DK大師との共著は一万ページにもおよぶ膨大なものであるそうです。
その著作の中で、大師は占星学について、以下のように語っています。
「あなた方が私と一緒に、全ての科学の中で、最も偉大で、最も古いこの科学を学ぶとき、このことを心に留めておいて欲しい。占星学は、神の大計画を正確に理解するようになる前に、原初の美しさと真実性が復興されなければならない科学である。」
「私が、次に言いたいことは、占星学が本質的に、今日の世界において、オカルト的な真理を最も純粋に提示しているということである。何故なら、空間全体と、そこに存在する全てのものに対して働きかけている、エネルギーとフォースを扱う科学だからである。これらのエネルギーをより理解し、空間と云う場の性質を正確に理解すれば、個人と惑星や太陽系、そして宇宙との関係を把握することとなり、私たちは、より科学的な人生を送るようになるであろう。この科学的な人生をもたらすことが占星学の当面の目標である。」
また、大師は自らのことを次のように語っています。
「私はある段階の弟子である、というだけで十分であろう。最も卑しい熱誠家からキリスト自身に至るまで、さらにキリスト以上の方々に至るまで、全ての人が弟子だからである。私は他の人々と同じような肉体をまとってチベットの辺境の地に住んでいる。そして、私の責務が許すときには、チベットのラマ僧の大きな一団を統轄している。私がこのラマ寺院の院長であると伝えられているのはこの事実によるものである。ハイラーキーの仕事において、私と提携している人々は、私の別の名前と役職を知っている。アリス・ベイリーは私が誰であるかを知っており、私の名前を二つ知っている」
「私は、一般の人々よりも少しだけ長く道を歩んできた。そのために、私は、より大きな責任を背負っているあなた方の兄弟である。私は、この本を読むどの熱誠家よりも苦闘探究し、光へと前進してきたものである。そのために私は、どのような犠牲を払おうとも、光の伝達者として働かなければならない。教師の間では年齢が重んじられているようであるが、私は老人ではない。しかし、私は未熟な者でもない」
「私の仕事は、反応があるところならば、どこへでも不朽の知恵についての知識を教え、そして広めることである。私はこの仕事に長年にわたって携わってきた。また私は、機会が与えられれば、いつでも、モリア大師とクートフーミ大師を手助けするよう努めている。何故なら、私は長きにわたって彼らと彼らの仕事に関わってきたからである」
「以上で、私は多くのことをあなた方に語ってしまった。しかし、情緒的な熱誠家が、グル(導師)や大師に捧げる盲目的な服従や愚かな献身を、私に捧げさせるようなことは何も言ってない。情緒的な献身を、人類への非利己的な奉仕へと変性するまでは、望んだとしても、私との接触は果たされないであろう」
さらに、大師はアリスベイリーに記述させた著作について、以下のように語っています。
「私が書いた本は、受け入れるように要求することなく世に出される。それらは、正しく真実で有益なものかもしれないし、或いはそうではないかもしれない。それらが真実であるかどうかを、適切な実践と直観の修練によって確信するのは、あなた方の役目である」
「それらが、霊感によって書かれたものとして迎え入れられることや、息を殺して、大師方の一人の作品であると語られることには、私も、アリス・ベイリーも全く関心がない」
「もし、既に世界に提供されている真理に続く「真理」として受け入れられるならば、また、私が与えた情報によって、熱誠や奉仕をしたいという意志を、情緒の階層(第一意識)から、マインドの階層(第二意識)へと高めることができるならば目的を果たしたことになる」
「伝えられた教えが、世界で働く人々のマインドに反応を呼び起こし、直感の閃きを招くならば、その教えは受け入れてもよいであろう。しかし、そうでなければ、受け入れるべきではない」
「語られていることが、結果として確証に結びつくならば、もしくは、類似(相応)の法則のもとで照らし合わせて、正しいと思われるならば、申し分のないことである。しかし、そうでないならば、語られたことを受け入れてはならない」