下記の一節は、新約聖書の中で、イエスキリストが語った言葉として有名なものの一つです。文語訳版は、口語訳のものより格調の高い響きで、我々の心を打ち、魂が浄められるような気持になるのは私だけでしょうか。
(新約聖書 マタイ伝 6章より)
なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。
さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。 また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。 さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。
この故に汝らは斯く祈れ。 「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。 御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。 我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。 我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給へ。 我らを嘗試に遇はせず、惡より救ひ出したまへ」 汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん。 もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給はじ。
なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。 なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ。 これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。
なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。 なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。 なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし。
身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。 されど汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや。
人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。
この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。
生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。 汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。 又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。
野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及(し)かざりき。今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。 まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。
この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。