天目山異聞(その3)

徳川家康は、勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した。

 

景徳院山門と勝頼夫妻と子・信勝の墓所。Wikipediaより。


23. 天目山の別れ

 

武田家滅亡の地は「天目山」とされているが、実際にそのような山が存在するわけではない。峻険な山間部ではあるが、「天目山」というのは「天目山棲雲寺」のある一帯の通称であり、寺院の山号がそのまま地域の呼称となったものである。この天目山棲雲寺は、貞和四年(1347年)、業海本浄和尚によって創建された臨済宗建長寺派の寺院で、甲斐武田家の菩提寺の一つである。応永23年(1416年)の「禅秀の乱」に際し、甲斐武田家13代当主の武田信満は、上杉禅秀氏憲に与(くみ)して戦ったが、室町将軍と鎌倉公方の連合軍に攻め込まれ同寺で自刃した。棲雲寺より先の山道は大菩薩峠へと続いている。

 

勝頼主従は、天目山棲雲寺へと向かったが、一行が麓の田野まで辿り着いたとき「天目山」の地下人や、勝頼の側近だった秋山摂津守や甘利左衛門尉らが手を携えて、勝頼の入山を拒むべく弓や鉄砲を撃ちかけてきた。

 

日川渓谷沿いを田野に向かって遡ると、水野田の集落にでる。ここが武田方と織田方の最初の戦場となった「四郎作(しろうづくり)古戦場」であり、小宮山内膳が奮戦した場所で石碑が建てられている。この一帯は、両軍が激しく矢を射懸けあい、矢が無数に地面に突き刺さったので「矢立」とも呼ばれている。そして日川を渡ると、「鳥居畑古戦場」の碑が建っている。ここで、土屋右衛門尉昌恒や秋山紀伊守らが奮戦して、勝頼の自刃の時間を稼いだと伝わっている。勝頼父子と北条夫人が自刃したとされる場所には、後に徳川家康によって、勝頼主従の菩提を弔うために建立された「天童山景徳院」があり、勝頼一族と家臣や侍女らの墓所がある。周辺には、侍女たちが投身した「御姫淵」、勝頼らの首級を織田方の将兵が洗った「首洗い池」が伝わっている。さらに、天目山に向かって登って行くと、土屋惣藏昌恒が天目山から下りてくる敵をただ一人で防いだと伝わる「土屋惣藏片手切りの遺跡」や、勝頼が一揆に行く手を阻まれ、進退窮まって思案したという「思案石」などがある。

 

勝頼の正室・北条夫人は、「このような野原で果てることになろうとは予想もしませんでした。こんなことになるならば、新府で死ぬことができた身であるのに、ここまで落ちてきて死ぬことになろうとは、死後にも悔しさが残ることです」と嘆じたという。すると勝頼は、「自分もそう思ったが、小山田に騙されたのも、あなたのことが可哀そうだと彼に説得されたからなのだ。何故ここまで来たかといえば、都留郡は相模国に近く、どんなことをしても貴女を北条家へ戻し、自分は潔く死のうと考えたからなのだ」と告白した。北条夫人は驚き、自分はどんなに命じられても実家へ戻ることはない。命ある限りは言うまでもなく、死後も勝頼と離れたくないと返答した。

 

かくて、勝頼主従は、往くもならず、退くこともできず、遂に田野で進退窮まった。ところが、この日の早朝、勝頼主従を追いかけて来た人物がいた。小宮山内膳正友晴(こみやま・ないぜんのしょう・ともはる)である。父は小宮山丹後守虎高といい、武田家の譜代であった。しかし内膳は、勝頼の側近の跡部勝資・長坂釣閑斎・秋山摂津守と仲が悪く、さらに勝頼のお気に入りの小山田彦三郎と喧嘩をしたため遠ざけられ、逼塞を命ぜられていたのである。

 

内膳は、土屋昌恒に取次ぎを乞い、三代の御恩を果たすべく供をしたいと申し出た。これには、土屋昌恒や秋山紀伊守らも感動し落涙した。内膳は、土屋昌恒の許可を得て、伴ってきた生母と妻子を、弟の小宮山又七と同心の駿河先方衆に託し、駿河方面へと落ち延びさせた。

 

このとき、昌恒も自らの妻に向かい、子供を連れて落ち延びるように諭した。妻は必死に運命をともにさせてほしいと懇願したが、昌恒は妻と子供を馬の背に押し上げ、信頼のおける土屋衆をつけて、妻の里でもある駿河へと落とした。この時、妻子を守って落ちた土屋衆については、甲斐国志士庶部第四「脇又市郎」の処に「土屋惣藏の妻子を抱持して難を避く」と記されている。

 

また昌恒は、先の長篠の戦いで戦死した実兄の土屋右衛門尉昌続(まさつぐ)の第三子・土屋越後守宗昌に、武田家の姫を護って落ち延びるよう命じ、土屋衆と侍女を付けて武蔵国方面へと去らせた。飽くまでも推測であるが、高遠城で自刃した仁科信盛の実妹である於松(松姫)が一緒に落ち延びたのではなかろうか。実際に、松姫は五日市の奥にある数馬(かずま)の地に長く逗留し、後に八王子の寺で出家している。

 

★★★あきる野市在住の「松姫」研究家、森下晴男氏によると、檜原村の兜造りの古民家旅館「三頭山荘」の一角に「菊姫弁財天」という社(やしろ)があり、武田四郎勝頼の弟、高遠城主仁科五郎盛信の息女「菊姫」(生前弁財天の再来と称されたほど美しかった)を祀っている由。武田家が天目山で滅亡するとき、土屋家の伝えによると、宗昌ら一行は武田家の姫を護りながら落ち延びる途中、姫は病を得て亡くなったとのこと。まさに菊姫弁財天に残る菊姫伝説と符合している。★★★

 

勝頼は、何度も夫人と嫡男の信勝を落ち延びさせようとしたが、二人とも頑として聞き入れなかった。

 

勝頼は、ここまで運んできた武田氏の重宝、日の丸御旗、楯無の鎧(たてなしのよろい)と、諏訪方性(すわほっしょう)の旗などを家臣に命じて安全な場所に移させた。御旗は、天喜四年(1056年)、源頼義が後冷泉天皇から賜ったもので、日本最古の日の丸と言われ、鎧は新羅三郎義光以来、御旗とともに武田宗家に伝えられたものである。命を受けた家臣は、死地を脱して重宝類の移送に成功し、今でも山梨県塩山市の雲峰寺に「日の丸の御旗」が、また同じく菅田天神社に「楯無の鎧」が安置されている。

 

小宮山内膳は、自分を陥れた者たちが、すでに逃亡していたことを知り、勝頼の運のなさを嘆いたという。かくて、勝頼主従は、田野を死に場所と定め、敵を迎え撃つ用意を始めた。百姓の民家の周辺に柵を構え、ここで織田方を待ち構えた。勝頼は、ずっと従ってきた、武田逍遥軒信綱の子で、勝頼の従兄弟にあたる麟岳和尚に、落ち延びて自分たちの菩提を弔って欲しい旨を依頼したが、一門である以上、勝頼一族を見捨てがたく、ここに至れば冥途黄泉までも同道し師資の契約を全うしたいと述べるのだった。

 

 

24. 土屋昌恒の悲憤

 

すでに敵は古府中(甲府)を過ぎ、甲斐善光寺のあたりまで迫っているとの報がもたらされた。勝頼らは、ここで別れの盃をかわし、武田勝頼主従の運命は定まった。

 

『甲乱記』によると、敵が近くまで迫ったとの報により、跡部勝資は動揺し、この地域の地下人に計策して天目山に入り、世の中の情勢をうかがうべきだと勝頼に言上した。

 

すると、土屋昌恒が進み出て、「出過ぎたことではあるが、今は心の豪胆こそが肝要である。跡部の言い分は未練であり、そのような無分別な意見を言いつのって来た結果がこの有様となり、お家滅亡にまで追い込まれたのだ。よくよくお考え頂きたい。小山田が敵となり、天目山の地下人にも叛かれたうえは、最早いかなる鉄城に籠ろうとも運は開かれまい。侍は死ぬべき場所で死ななければ、必ず恥を見ると言われているのは周知のことである。源氏の祖・八幡太郎義家も、侍たるものは、死ぬべきところを知ることが肝要だと申された。今こそ、それを思い起こすべき時である」と一気に語った。

 

そして、「たとえ小勢であっても、新府城に踏みとどまり、敵が寄せてきたら命を限りに戦い、矢が尽き弓が折れたなら、そこで自刃してこそ代々の武田の名を顕わし、信玄以来の武勇を残せたのに、小山田のような恥知らずを信じてここまで逃れてきて、その上、卑夫の鏃(やじり)を受けて、一門の屍(かばね)を山野に晒すことになるとは後代までの恥辱である。戦の勝ち負けは、時の運によるものであり、戦って敗北することは恥辱ではない。ただ戦うべきところで戦わず、死ぬべきところで死なぬことは、弓矢の家の瑕瑾(かきん)ともいうべきである。ある書に、進むべきを見て進まざるを臆将(おくしょう)と云い、退くべきを見て退かざるを闇将(あんしょう)と云う。よって、合戦の進退は、つまるところ分別工夫によるものと心得ます」と続けた。

 

さらに、「跡部勝資の分別は軽率である。ここに及んで今更言っても仕方がないが、もはや胸の内を申しあげれば、先年の越後の『御館の乱』で景勝と景虎が争ったとき、景虎に対し不義の行動をとったが故に、武田家は天下に悪名を乗せ諸人の嘲笑を買ったのである。甲相同盟が破綻し、それまでの重縁が切れて怨敵となり、その結果が今の有様である。小山田をはじめ、多くの恩顧の人々が武田家を見限ったのもここから始まっている。敵は余所にはいないものだ」と主張した。

 

跡部は赤面し平伏くしたままひと言も抗弁できなかったという。勝頼は、土屋の諫言を聞くと、織田・徳川連合軍も迫り、天目山の地下人もことごとく逆心し、進退窮まり逃れる術(すべ)もないうえは、武田家最期の頭領として、この地で立派に戦って自刃することを決意した。

 

天目山勝頼討死図(歌川国綱画)

天目山の土屋惣藏昌恒片手切りの碑

 

Wikipediaより転載


 

 

25. 武田家最後の戦い

 

ついに滝川一益の軍勢が姿を現した。先勢は津田秀政と篠岡平右衛門であったが、土屋昌恒らがこれに立ち向かった。この時、跡部勝資が馬に乗って逃げ去ろうとした。これを見た土屋が「尾張守。今さらどこに落ち延びようというのか」と怒鳴り、弓を射かけたところ、跡部は胴を射抜かれ落馬したところを、殺到した敵によって頸(くび)を取られたという。

 

土屋は矢束を解き、細い橋を越えて攻め寄せる敵を、次々に射落とした。織田の兵卒は、弓で射抜かれ、落馬し川に転落する者、卒倒する者が相次いだ。だが、遂に矢が尽きたため、土屋は太刀を振りかぶって、敵数百人が控える真ん中に斬り込んだ。土屋の後に、安西伊賀守・秋山源三(昌恒の弟)・小山田式部・小宮山内膳らが続き、小勢ながら死に物狂いで戦ったので、織田方は斬り立てられ、甚大な被害を受けたという。『信長公記』にも、土屋昌恒が弓矢で織田方を悩ませたことが特記されている。また土屋惣藏昌恒は、最も崖路の狭い所で、岩角に身を隠し、片手は藤蔓につかまり、片手には太刀を持って、天目山より攻め下って来る敵兵を次々に切っては谷川に蹴落としたため、谷川の水は三日間も血で赤く染まったと伝えられている。その場所には、今でも「土屋惣藏片手千人切り」の碑が立っている。

 

武田信勝は、当時十六歳であったが、父勝頼と並んで敵を斬りまわり、また十文字鑓を振るって奮戦した。その姿は勇猛さと華麗さとをあわせたものが有ったという。ところが鉄砲の流れ弾が当たって負傷した。信勝は勝頼の御前に行き、負傷したことを告げ悔しさを露わにした。すると勝頼は、私もお前も今日討ち死にする命であるから、どちらかが先に逝くかの違いだけだ。名残惜しいことなどあろうか、重傷ならそこで切腹せよ。薄手(軽傷)なら敵中に斬って入り討ち死にせよと諭した。すると信勝は、心得ましたと言い放ち敵中に斬って出た。信勝には、麟岳和尚が出家の身ながら寄り添い、武士に負けぬ働きをした。それはあたかも、源義経と弁慶主従のごとき様子だったという。

 

敵を切り伏せ、一息ついた麟岳は、信勝の武勇を褒め称えつつも、十六歳で死ねばならない運命に落涙した。これを見た武田方の侍も涙にくれた。すると信勝は、「みな臆したか、全てのものには終わりがある。松樹の千年も槿花(きんか)の一日の栄も同じことである。百年の歓楽も、信勝の十六年の生涯も同じように夢のようなものであるから、命を惜しむものではない。ただ返す返すも悔しいのは、新府に踏みとどまり、信長を待ち受けて討ち死にすべきものを、臆病者の意見に従いここまで逃れてきて、野人の手に懸かって屍を山野にさらすことだ。賊徒の手に懸かるより、麟岳と刺し違えれば、冥途までの導きを恃(たの)むこともできるであろう」と語ると、信勝と麟岳は互いに脇指を抜き持つと、刺し違えて息絶えた。これを見ていた河村下総守は、信勝の幼少より奉公してきた私こそお供申しあげますと言い放ち、腹を搔き切り果てたという。

 

勝頼は自刃を決意すると、安西伊賀守と秋山紀伊守を使者として北条夫人のもとへ送り、女の身で自刃するには及ばない。ここから逃れ小田原へ戻り、自分の菩提を弔ってくれるように伝えた。しかし、北条夫人は、夫婦になった縁は来世までのもので、ともに死出の山、三途の川を越える覚悟であると云って断った。そして、北条夫人は子をなすことがなかったことが唯一の心残りであるとし、自分の亡き後、小田原の実家で菩提を弔って欲しいことなどを文に認(したた)めた。

 

そして、小田原から付いてきた侍臣の早野内匠助・剱持但馬守・清六左衛門・清又七郎の四人を召し寄せ、ここから脱出して小田原の実家に文を届けるよう命じた。彼らは共に死ぬことを願い出たが、北条夫人はこれを許さず、女性ではあるが早雲以来の家に生まれた身である以上、どのような最期を遂げたか、汚き自害ではなかったことを報告するよう彼らを諭した。彼らは文を拝受した。北条夫人は髪を少しだけ切り、文に添えて渡したといい、辞世の句を詠んだ。

「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消る 露の玉の緒」

 

剱持但馬守は、三人に自分だけは最期までお供する。せめて一人ぐらいは北条家への聞こえも悪いであろう。わが妻子には北条夫人の供をしっかりと勤めたと伝えてほしいと言った。かくて、三人は田野を脱出し、剱持は夫人の側に残った。

 

まもなく勝頼から、自分の御座所にも鉄砲が激しく撃ち込まれるようになったので、移動して、岩陰に移るよう指示があったが、北条夫人は、これから自刃しようとしている身を庇い、命を惜しんでも仕方がないと言い放ち、西に向かって念仏を百辺唱えると、「勝頼さまはどこにおられますか、私はもう自害いたします。お急ぎください、お待ちしております」と叫ぶと、脇指を抜き胸元に突き立てて、衣を被ったまま前に倒れて絶命した。御上臈はこれをみて、私もお供いたしますというと、自刃して北条夫人の足下に取り付き果てたという。

 

勝頼は、敵を四、五人相手に戦っていたが、そこへ秋山紀伊守が駆けつけてきて、御正室がはや御自害なさいましたと報ずると、すぐに取って返し、北条夫人の遺骸ににじり寄り、衣を取り去ってその死に顔を見つめた。雪のような肌が血に染まり、化粧も色あせて見え、朝顔の花が露にしおれたように見えた。勝頼は、さすがに心を乱し、落涙しつつ夫人の髪を自分の膝にかき上げ、生きている人に語りかけるように「思いがけずこの戦は始まったが、まさかこのようになるとは思わなかった。ついに立て直すこともかなわず、この頃はどれほど心配されていたか気になってはいたが、とうとう涙のうちに果ててしまわれたとは本当に悲しいことだ。不運な者と契られて、悪縁に惹かれてこのような最期を遂げられるのも、前生からの宿縁であろうから、人知の力の及ぶところではない。しばらくお待ちください、死出の三途の川は自分が手を取ってお渡ししよう」と云って、しばらく遺骸を抱きかかえたままであった。

 

ようやく思い切ったように立ち上がり、土屋昌恒に向かって、「妻とともに死のうと思ったが、皆と一緒に敵を待ちたい」と語った。そこへ敵が迫ってきたので、全員が武器を取って激しく戦った。土屋昌恒・金丸助六郎・秋山源三の金丸虎義の子息たち三兄弟は、先頭をきって突進してくる敵を全て討ち取ったので、後続は気後れして進んでこなくなった。これを見た勝頼は、ここが潮時だと思い、土屋昌恒に敷き皮を直させ、そこで切腹すると云った。土屋は謹んでこれを承り、介錯の準備を始めた。

 

勝頼は正座し、辞世の句を詠んだ。

「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴れて行衛(ゆくえ)の 西の山の端」

 

これを受けて、土屋昌恒が返歌を詠んだ。

「俤(おもかげ)の みおしはなれる 月なれば 出るも入るも おなじ山の端」

 

勝頼は、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏心」と法華経如来寿量品の偈文を唱えると潔く自刃した。介錯を終えると、土屋は勝頼の遺骸に抱きつき、すぐにお供いたしますと云って慟哭した。

 

小宮山内膳は、甲斐源氏二十代当主・武田勝頼のお供に付いていなかったのは残念である。ではもう一度最期の一戦をして腹を切ろうと云って、大軍の中に突入し、獅子奮迅の働きをした。また、金丸助六郎が「勝頼・御正室・信勝さまたちは御自害なさった。思い残すことはない。いざ敵の中へ突入し討ち死にしようではないか」と云ったので、土屋昌恒・金丸助六郎・秋山源三らの三兄弟は勝頼の遺骸に別れを告げ敵中に突入した。その奮戦ぶりは炎のようであり、多くの敵兵を死傷させた。すると、金丸助六郎が「とうてい生きながらえる身ではあるまい。あまりに人を殺傷しすぎたので自分の死後の罪になるだろう。いざ互いに刺し違えよう」と云ったので、三人は同意して刺し違えて死んだという。この最期をみた者は、一騎当千ぶりといい、主君に対する思いといい、彼らの死を惜しまぬものはなかった。

 

殉死した人々をみると、勝頼の高遠時代以来の家臣が多く、その他に諏訪衆とみられる人物も見られる。武田家の譜代では、武田氏の御分家・金丸氏の金丸虎義の子息である土屋・金丸・秋山兄弟が目立つ。殉死者の一覧の中には、土屋源蔵なる人物の名がみえるが、土屋昌恒が、長篠で戦死した実兄「土屋右衛門尉昌続」の三男「宗昌」に武田の姫を守らせて落ち延びさせたが、その宗昌の兄であったのかもしれない。 

 

昭和初期の頃の「天目山風景」

恵林寺本堂より庭園を望む

 

Wikipediaより転載


 

 

26. 武田征伐軍の動向

 

3月5日、織田信長は、動員をかけた軍勢の安土城下への集結が完了したため出陣をした。3月6日、美濃国に入り、呂久の渡しにさしかかったところ、信忠より仁科盛信の首級がもたらされた。信長はこれを岐阜に運び、長良川の川原に晒し人々の見物に供させた。そしてこの日、織田信忠の軍勢の先鋒隊が甲府を制圧しこれを占拠した。そして、勝頼は駒飼に滞在したまま小山田信茂の出迎えを待ち続けていた。

 

3月7日、この日徳川軍は、いよいよ駿河から甲斐に向けて動き出した。織田信長は3月6日と7日の両日、岐阜城に留まり各地からの軍勢の到着を待った。岐阜城に集結した軍勢は、織田信澄・竹中重矩・蜂屋頼隆・明智光秀・菅屋長頼・筒井順慶などなど、錚々たる顔ぶれであった。

 

織田信忠は、諏訪を出陣して甲府に入り、一条信龍の屋敷に本陣を張った。信忠は、勝頼の行方を探らせるとともに、武田一族や家臣らの探索を命じ発見次第処刑している。織田氏による武田の残党狩りが始まったのである。信忠が甲府に入ると、甲斐・信濃・上野・駿河の人々が続々と参集し始め織田氏への帰属を申請したといい、その有様は門前市をなす状況であったという。

 

一方、上杉景勝は北信濃衆の市川信房に書状を送り、勝頼支援のために何でもする決意だと記しているが、重臣との間で勝頼支援について齟齬があり、結局上杉軍は武田勝頼を支援し、織田軍を牽制することができなかった。

 

3月8日、信長は岐阜を発ち犬山城に入った。ここで、北陸で上杉景勝や一向一揆と対決していた柴田勝家の書状を披見し北陸の情勢の報告を受けると、ただちに返書を認め(したため)て今後の対策を指示するとともに、武田勝頼への攻撃が思いの外うまくいっていることを知らせている。

 

信長は、勝頼が新府城を自ら焼いて山奥に逃げ込んだことを知ると、もはや勝負はついたと思い、自分が出馬するまでもなくなったと記し、初めて安堵したようである。そして、出陣は関東見物をするためだと述べた。信長は、決戦をすることもなく山奥に逃げ込んだ武田勝頼を、「武田氏歴代の名誉を汚してしまった」と記している。信長は、どこかで必ず勝頼ならば織田軍に決戦を挑んでくるだろうと予想していたため、勝頼相手では信忠にはいささか荷が重いと考えていた。しかし、信長の懸念は雲散霧消したのである。

 

3月9日。徳川軍の先鋒は身延山久遠寺に入り、家康は万沢に到着した。徳川方のもとには、織田信忠が6日に甲府へ進駐し、苛烈な武田家の残党狩りがおこなわれていること、そして、勝頼が山に逃げ込んだことなどの情報がもたらされた。

 

3月10日。一方、織田信長は余裕の行軍をしている。また徳川家康は、穴山信君の案内で甲斐市川に着陣。ただちに織田信忠のもとに参上し挨拶を行った。さらに、徳川軍は市川の上野城に籠城していた一条信龍を攻略し一条父子を刑に処している。上野国では、武田家による支配が失われてから国衆同士の争いが激化し、再び戦国の世へと逆戻りする様相を呈していた。

 

 

27. 信豊の死と勝頼父子の首級

 

さて、勝頼から信濃国を譲られ小諸城に向かった武田典厩信豊は、佐久郡や西上野の国衆を糾合し、織田軍を背後から攻めて勝頼を救おうとしていた。小諸城には下曾根浄喜が在城していたが、既に織田方へ内通しており、信豊の入城に応じたが、一行が城内に入ると突然城門が閉められ彼らに向けて攻撃が開始された。驚いた信豊は、家臣とともに奮戦したが、全身に傷を負い、もはやこれまでと覚悟し自刃している。信豊は勝頼との約束を果たすことが出来なかった。

 

織田信長は、武田家が滅亡した3月11日には、東美濃の岩村城に在城していたが、13日には勝頼滅亡の報がもたらされた。そして14日には下伊那の浪合に布陣したが、ここで信忠の使者の携えて来た勝頼と信勝の首級に対面している。『三河物語』には、信長ご覧じて、「日本に隠れなき弓取りなれども、運が尽きさせ給いて、かくならせ給うものかな」と述べたと記録されている。

 

3月15日。信長軍は飯田まで軍を進め、ここに布陣すると、勝頼父子の首級を飯田に晒した。翌16日には、小諸城で自刃した武田信豊の首級が下曾根によって届けられたのである。信長は早速検分し、勝頼父子の首級と一緒に晒した。そして同日、織田信忠から数多くの戦利品が信長のもとにもたらされた。信長は、勝頼・信勝・信豊の首級を、岐阜に晒していた仁科信盛の首級とともに京都へ運び獄門に処すよう家臣に命じている。

 

3月18日。信長は高遠に一泊し、翌19日には杖突峠を越えて諏訪に入り、上諏訪の法華寺に本陣を据えた。すでに織田信忠によって諏訪大社は掠奪されたうえに焼き払われており、諏訪大社の別当である法華寺の周辺は一面の焼け野原であった。

 

早速、木曾義昌が御礼に参上し、信長は「この度の忠節は比類のないものである」と賞し、恩賞を与えた。これを知った関東の諸将は、われ先に信長の下に出仕したのである。また、甲府に布陣する織田信忠と徳川家康のもとに、まもなく信長が諏訪へ入る予定であることが知らされると、家康は穴山信君を伴って諏訪まで信長を出迎えに向かった。

 

家康に引見した信長は、「この度かほど早く勝頼を滅亡させ、本意を達することができたのは、先年の長篠の合戦において、家康が協力して武田軍の精鋭を討ち果たしておいたが故である」と賞し、懇ろ(ねんごろ)な扱いをした。そして、家康の取り持ちで穴山信君に引見すると、その功を賞し、恩賞を与え、所領を安堵した。また、伊那郡松尾城主の小笠原信嶺に引見し、「この度の忠節比類なし」と賞し、所領の安堵を約している。こうして信長は、武田勝頼を滅亡させ、武田家親類衆の重鎮たちを自らの麾下に組み込むことに成功し、積年の宿願を達成したのである。

 

ところで、この諏訪の法華寺で、明智光秀が信長に祝辞を述べたが、光秀の「われらが日ごろから骨折ったかいがあって、諏訪郡をはじめとする武田領が上様のものになった」という言葉に信長が激怒し、「光秀はいったいどこで骨を折って武功を立てたのか」と面罵し、光秀の頭を欄干に何度も打ち付けるという事件が起こったという逸話が残っている。 

 

 

28. 武田家への仕置き

 

4月2日。信長は雨に煙る中、諏訪を発って甲斐に入り台ケ原で一夜を明かし、翌3日には富士山を眺めながら新府城の焼け跡を検分して甲府へ入った。既に織田信忠によって、躑躅が崎館跡には仮の御殿が設けられており、信長はここへ入って武田領の仕置きを続けた。

 

信長・信忠父子は、家臣への知行割を実施するとともに、武田一族や武田家重臣の追求に着手した。さらに苛烈な残党狩りが始まったのである。武田方の者を捕縛した者には褒美を取らせると村々に通知した結果、数多くの武田一族の者や重臣が捕えられ全て処刑された。

 

織田軍の武田領侵攻を契機に、組織的に抵抗することもなく解散してしまった武田方をあくまで追求し、武田家一門衆、譜代衆、重臣や有力国衆、そしてその縁者達は、女子供に至るまで捕えられ処刑され族滅させられている。さらに、小山田信茂のように、勝頼を土壇場で見捨てて織田側に走った者たちも、老母に至るまで一族全員が容赦なく断罪され処刑された。

 

織田氏は、これと併せて、武田氏と関係の深かった寺社を掠奪放火して寺領を没収した。こうした織田氏の政策のもと、最も悲惨な運命を辿ったのが、武田信玄の墓所がある武田家菩提寺の恵林寺であった。織田信忠によって、かつて近江の観音寺城に拠って信長に抵抗し、信長から睨まれていた宇多源氏佐々木氏の嫡流で、近江の守護大名であった六角承貞の次子・六角賢水を始め、若狭武田家の武田五郎、土岐頼芸(よりなり)、足利義昭の上使・成福院などを恵林寺内に匿っていることを突き止められ、引き渡すように命ぜられていた。快川紹喜大通智勝国師は、すでに彼らを密かに逃させていたため、織田軍に寺内を随意に家探しすることを認めた。 

 

織田信長は、かつて武田信玄によって岐阜近辺まで攻め込まれ、放火された恨みを忘れておらず、その鬱憤を散じるために、信玄の墓所を焼き払うように自ら指示していた。織田方は、快川国師ら御出家衆に、山門に上がって待機するようにと命じた。そして、僧を山門に上げると梯子を取り外し、薪を積んで火を放ったため、快川国師ら百五十人余が生きたまま焼き殺されたのである。そして恵林寺全山の大伽藍は灰燼に帰した。

 

快川和尚は迫りくる猛火の中にあって、僧侶たちに仏法とは何かをこの場に臨んで公案し、それぞれが思うところを述べ、末期の句とせよ呼びかけた。快川は長禅寺の高山和尚と燃え盛る山門の中で最後の問答を試み、快川が「三界(人間界)には安らぐところがなく、煩悩は炎のように燃え盛り留まるところがない。まるで『火宅』のようである。この期に及んでどこへ逃れようというのか」と問いかけると、高山和尚は、「この現実を受け入れて堂々としていることだ」と返答した。すると快川は、再び高山和尚に「それでは、この『火宅』の現実の中で堂々としていることの底意は如何なるものか」と問うと、「心頭滅却すれば火も自ずと涼し」と有名な偈を述べたのである(甲乱記による)。 

興津清見寺

久留里城天守

土浦城

 

Wikipediaより


 

 

29. 土屋昌恒の遺児のその後

 

田野における武田氏滅亡の際、土屋惣藏昌恒が落ち延びさせた妻と子(平三郎と妹)は、供の土屋衆の献身により首尾よく駿河国へと逃れた。母と子の落ち着いたところは、駿河国有度郡今泉村(静岡県清水市今泉)の土屋氏ゆかりの禅寺「楞厳院(りょうごんいん)」であった。この寺は、土屋昌恒の養父・土屋豊前守が青梅の道白禅師に帰依して、同禅師を請来して自らが開基となったもので、さらに昌恒が懇意であった甲斐国晃広厳寺の文州和尚が居たために、子の養育を頼もうとしたのである。

 

五歳であった昌恒の遺児・平三郎は、この楞厳院で養育されることになったが、供の土屋衆は、まだ若い昌恒の妻と二歳の女子の身の振り方を案じ再婚の道をすすめた。妻の父・岡部丹波守元信も、昌恒の養父・土屋(旧姓岡部)豊前守貞綱も駿河の人であり、また、昌恒自身も清水城に在城していたこともあることから、何かと相談できる縁者も少なくなかったのであろう。やがて、妻は松平周防守の重臣・岡田元次に嫁いでいった。そして、母と別れ楞厳院にあった平三郎は、その後、清水の臨済宗の名刹・清見寺(せいけんじ)へと移り、そこで成長した。

 

天正十六年(1588年)。徳川家康が鷹狩の途中、清見寺に立ち寄った。そのとき、住持の僧「大輝」が平三郎をして御茶をすすめ奉ったが、その立ち居振る舞が尋常でないことから、何者の子であるかを問うと、大輝は「これは甲斐の土屋昌恒のみなし児であり、所縁の者から、成人後は僧にして昌恒の菩提を弔わせるように頼まれてあずかっている」と語り、その由緒を記せる書を献じた。

 

家康は、「これは大変な忠臣の子で、しかも名家のものではないか」と云い、家康は自分のもとで育てたい旨を語った。僧は喜んで同意し、家康はその児を輿に一緒に乗せて連れ帰った。そして、お茶阿の局(つぼね)に養育を任せた。家康とお茶阿の局の間に生まれた子が松平忠輝であり、平三郎にとっては義兄ということになる。

 

やがて、平三郎は家康の命で、近習として秀忠(後の二代将軍)に仕えた。豊臣秀吉から国替えの命があり、家康は江戸へ移封されたが、平三郎が十四歳のとき家康に供奉して入洛し、やがて相模に知行地を得たのである。さらに、秀忠の一字を賜り忠直と号し、知行地を下総に移されたが加増されて一千石となっている。

 

慶長五年(1600年)。関ケ原の戦いに臨んで、秀忠の指揮する三万余の徳川別動隊は、小山から中山道を西上した。土屋忠直も秀忠の近習として側に控えていた。信濃国の小諸城に入ったが、近くには真田氏の上田城があり、以前にも徳川軍は上田城で手痛い敗北を喫していことから、血気にはやる徳川の世子は、上田城の存在を黙って見逃すことが出来なかった。秀忠は、大軍に上田城攻撃を下知した。しかし、徳川軍の怒涛の攻撃にも揺るがず、そればかりか、城外で野戦を仕掛けられ多大な打撃を被ったのである。

 

こうして攻防数日、上田城は落ちず、我に返った秀忠は兵をまとめて小諸城を出陣したが、関ケ原に到着した時には、不覚にもすでに合戦は終わっていたのである。秀忠に対する家康の怒りは激しく、しばらく口もきかなかったという。

 

幼少より、秀忠に付き従ってきた忠直は、秀忠への家康の叱責を我がことのように受けとめて、主君と同様に胸をいためたことと推察される。また、かつて無敵とうたわれた武田軍団の主翼を担った真田昌幸の勇猛果敢な働きぶりと、妙を尽くした戦術を目の当たりにして、心の内では、今は亡き父の土屋昌恒と、叔父の土屋昌続を偲んでいたのかもしれない。

 

土屋の名跡を守り、家康と秀忠への忠節を尽くす忠直に、関ケ原の戦後処理が大きな幸運をもたらした。慶長六年(1601年)。従五位下民部少輔に補任されたが、翌年に上総国久留里城二万石を賜り、一城の城主に栄進し土屋氏中興の祖となった。

 

かつて、甲斐武田家の十三代当主武田信満の次男武田信長と土屋景遠が、古河公方の足利成氏の命で上総国を制圧し、その支配権を与えられて「上総武田家」を開いた。土屋景遠の父・氏遠の妹が武田信長の正室で、二人の間に生まれたのが信高(幼名・伊豆千代丸)であった。その信高には、二人の男子があり、弟が真里谷(まりやつ)武田氏を名乗り、この久留里城を築城している。

 

慶長八年(1603年)、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を創建した。その二年後に秀忠に将軍職を譲り、自らは駿府に隠退したが大御所として天下の形勢に目を光らせた。秀忠が将軍職の宣下を受ける晴れの上洛に、喜びをもって供奉した忠直であったが、慶長十七年(1612年)に病を得て床に伏した。将軍秀忠の手厚い見舞いにもかかわらず、同年に三十五歳の若さで永眠した。

 

忠直の正室は、宇多源氏の流れを汲む森川氏俊の娘で、正室との間に三人の男子をもうけている。上から、利直・数直・之直である。それぞれ父祖の資質を受け継いで英邁で、上下の信望を集めた。

 

利直は、秀忠および三代将軍の家光の信任厚く、学問を好み善政を施したので、家臣や領民から親しまれた。新井白石は、その父が利直のもとに仕官していたが、利直は白石の才を愛し、幼少の頃からことのほか可愛がった。

 

利直には三人の男子があったが、遺領は長男の頼直が継いだ。しかし、頼直には若い頃より奇行が多く、家臣からの人望もうすく、延宝七年(1679年)、正気を失ったという事由により改易され、久留里藩土屋氏は僅か三代で取り潰しの憂き目に遭った。しかし、父祖の功績が酌量され、また鎌倉以来の武門の名家の消失が惜しまれ、三千石の大身の旗本として家名の存続が許されたのである。この土屋家の屋敷は、「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の江戸本所松坂町の屋敷に隣接していたため、芝居や講談によく登場してくる。

 

忠直の次子である数直は勉学・武芸を好み、礼儀正しく情にあついため家中の信頼も高く、兄の利直に対して、後継ぎは弟の数直君にされるよう進言する家臣も多かった。やがて、将軍秀忠に拝謁。後に三代将軍となる家光に小姓として仕え、大いにその信任を得た。寛永元年(1624年)。従五位下大和守に補任され、書院番頭などを経て、寛文二年(1662年)に一万石をもって若年寄に昇進。同五年、老中を拝命し、幕政の中枢に座し、同九年(1669年)常陸国土浦城主四万五千石に封ぜられたのである。

 

それから、忠直の三男の之直は、二代将軍の徳川秀忠の近習となり、書院番、小姓組番頭、大番頭などを務め、三千石の旗本となった。

 

尚、老中として十四年間、幕政の中枢にあって腕をふるった次男の数直は、水戸街道の要衝の地・土浦の城主としても重要な役割を担ったが、民政にも心をくだき、興農などの善政が伝えられている。延宝七年(1679年)、七十二歳で没した。

 

数直の家督は、長子の相模守政直が継いだ。政直は天和元年(1681年)、駿河国田中城を受け取りの上使となり、翌年に土浦城からこの城に城替えとなった。その後、政直は大坂城代と京都所司代の要職を歴任し、貞亨四年(1687年)、老中に任じられ、再び土浦城主として復帰を遂げた。四代の将軍に仕え、三十年間にわたり老中職を務め、同職を退いた時には九万五千石を領していた。享保四年(1719年)に八十二歳で没している。

 

政直は、父祖の築いた土屋氏の名声を高め、明治維新まで続く土浦藩土屋氏の基盤をしっかりと固めたのである。やがて明治維新を迎えると、土浦藩の土屋氏は華族に列せられ、子爵に叙せられている。

父の郷「郷原宿」

 

「塩尻市郷原宿の街並み」より

 

 

参考までに

善光寺道を歩く

 

 

 


 

 

30. 五日市の土屋家と父の想いで

 

話しは元に戻るが、五日市の土屋家の祖は、天目山の戦いに臨んで、叔父の土屋昌恒から、武田の姫を護って落ち延びるよう命ぜられた「土屋越後守宗昌」である。徳川家に仕えた土屋忠直とは従兄弟にあたる間柄となる。祖母や母からよく聞かされた話であるが、五日市の土屋家には、土屋子爵の家令(宮家や華族の事務や会計を管理し雇人を監督した)が、時々訪れて来ていたとのことである。開光院の墓所には、年代も定かでない土屋家の墓が延々と連なっている場所がある。前住職の話によると、墓石に土屋佐渡守何某と刻まれているものもあったとのこと。

 

余談であるが、曽祖父・大資の母親は神奈川県厚木のS家から嫁いで来た。S家は中津川(相模川上流)の砂利の採掘権を江戸幕府から代々与えられた家柄で大変な資産家であった。幕末期に倒幕を目論む江戸薩摩藩邸の藩士により、厚木荻中藩の荻野山中陣屋が襲撃される事件が勃発したが、反乱分子は陣屋から金品・武器・弾薬などを強奪しているが、その際に下川のS家にも五千両を要求し、570両を調達している。

 

母がS家を訪れた際の想い出をよく語っていたが、S家の広大な屋敷内には小さな流れがあり、その豪壮な建物は土豪の風格のある家で、大きな部屋の長押(なげし)には朱塗りの槍が飾られていたそうである。五日市銀行の倒産に伴い、下土屋の土屋勘兵衛家も連帯して破産したが、大輔が婿養子に入った川崎のわが家(分家)が大資の母を引き取って、看護婦を付けて生涯にわたって面倒を見ている。

 

私が幼少の頃、法事などで一族の者が集まると、分家の祖である曽祖父の面目を立ててか、わが一族より土屋一族の方が多かったのを記憶している。皆、気さくでありながらも上品で、武家のような独特な雰囲気を持った人たちであった。今でも懐かしい想い出である。

 

私の父は元陸軍大尉で、陸軍航空技術研究所に勤務していた。やがて、土屋の紹介により一人娘であった母の婿となり、わが家を継ぐことになった。その父が、戦後、中小企業の経営者に祀り上げられたのだが、職業軍人でもあったことから、商売の裏も知らず、結局多額の負債を一人で背負うこととなった。やがて、元上官のE氏から、某商社が新たに航空機部門を発足させることになったため、それに参画するよう招聘されたのが大きな転機であった。

 

商社へ勤務するようになってから、父に連れられて何度も信州の父の郷に行ったものである。父は、塩尻の近くの郷原に生まれ育った。郷原は中山道の洗馬宿から分岐した善光寺西街道(北国西往還)の最初の宿場街で、洗馬宿と松本宿の中間に位置する。「民芸運動の父」と呼ばれる柳宗悦は、その随筆の中で郷原宿の美しさを次のように絶賛している。「街道は、手入れされた庭木を並木としてその間を通っているのである。こんなに美しい構造の宿場は他には見かけぬ。それも死んだ過去のようではない。宿場全体が見事な一個の作品だといってよい」と評している。父の実家は、街道に面した当地方独特の大きな古民家であった。二階は大きな屋根裏部屋となっており、そこに蚕棚がたくさんあり、蚕が桑の葉を食んでいたのを今でも憶えている。

 

郷原宿のすぐ近くは「桔梗が原」と呼ばれる地で、ここでは二度の合戦があった。1353年、南北朝時代に後醍醐天皇の第三皇子「宗良親王」と北朝方の信濃守護職「小笠原長基」とが戦ったもので、もう一つが、1553年の「武田信玄」と信濃の守護大名「小笠原長時」との戦いである。父や叔父は幼い私に、この戦いについて色々と話してくれたものである。

 

父の郷へ行くには、中央本線を新宿からで塩尻まで利用するのであるが、当時は甲府までは電化されていたが、甲府から先は非電化区間で、蒸気機関車が急勾配をあえぎながら客車を牽引したものである。父は、大月の右手に聳える岩殿山を指さして「あそこには城があった」とか、長い笹子トンネルを抜けてすぐの初鹿野駅(現・甲斐大和駅)では、この山奥に武田家滅亡の地があるなどと教えてくれた。また韮崎に停車すると、ここには勝頼が築いた新府城があり、その規模は当時としては大城郭であったなどと語ってくれたものである。

 

その頃は、塩嶺の下を抜ける「塩尻トンネル」もなく、列車は下諏訪駅を出ると諏訪湖に沿って大きく西へ迂回し、天竜川岸を走行して岡谷や辰野の街を経て行くのだが、やおら眼下に松本平が開け、列車はそこを目指して延々と急勾配を下るのであった。そして、駅で新たに乗って来た人々の持ち込む信州葡萄の香りが車中に漂い、また信州へ来たとのだという想いに充たされるのである。

 

私にとって、土屋の人々や父と叔父が語ってくれた甲州や信州に関わる話は、武田家の興亡に思いをはせる切っ掛けとなった。なにか深い縁を感ずるのである。

 

★歴史家の平山 優著「武田氏滅亡」角川選書刊と、長谷川 貴也著「亀城の軌跡」常陽新聞社刊から多くを引用させて頂きました。