天目山異聞(その2)

 

甲斐の金丸氏は、武田刑部少輔信重の子光重が、途絶えていた金丸氏を再興して金丸右衛門尉を称したことに始まる。九曜紋を家紋とする。武田家の御分家。


13. 勝頼の戦後処理と改革

 

長篠合戦で大敗を喫した武田勝頼は、土屋昌恒と初鹿野昌久に守られて死線を越え、漸く信濃に辿り着いた。川中島の海津城に残留していた信玄以来の宿将・春日弾正虎綱が急遽駒場(こまんば)まで駆けつけて勝頼を出迎えた。そして全ての武具を新しいものと取り換え、敗軍の体を悟られないようにしたのである。

 

また春日虎綱は、戦後処理に関する諸策を献言した。その大要は、武田家は甲斐・信濃・上野の三か国を領有し、駿河・遠江は北条氏政に割譲し、氏政と共同で織田・徳川連合軍に対処すること。さらに氏政の妹を正室に迎え入れて甲相同盟の絆をさらに強化すること。信玄の宿将の子弟を奥近習衆に採り上げて小身の側近として召し使うこと。そして、長篠敗戦の責任を取らせるために、一門衆の武田典厩信豊と穴山信公に切腹を命じることであった。

 

何故、虎綱が武田信豊と穴山信公に切腹させようとしたかと云うと、穴山信公は右翼に属していながら、ほとんど目立った働きもせず、敗色が濃くなると戦場をいち早く離脱し、総攻撃を仕掛けてくる織田・徳川連合軍に何らの対処もせず、そのために敗戦を早めたとみなされたことによる。また武田信豊については、右翼を統率する将としての責任からである。

 

勝頼は、北条氏政の妹(桂林院)との婚姻を実現させて甲相同盟を強化し、真田信綱の跡目を実弟の真田昌幸に相続させた。しかし、ほかの一切の策は実施できなかった。実際に、駿河・遠江を北条氏に割譲することは無理があったであろうし、勝頼が御一門衆筆頭の穴山信公と武田信豊を成敗することは、家中への影響が強すぎて不可能であったのであろう。

 

土屋惣藏昌恒は、この長篠の戦いで、実兄の土屋右衛門尉昌続と養父の土屋豊前守貞綱を失っている。勝頼の命により、兄昌続と養父貞綱の所領、家臣と兵、そして兄の官位「右衛門尉」を併せて引き継ぐこととなった。そのため、昌続の三男である土屋越後守宗昌は、叔父の惣藏昌恒の麾下(きか)に入ることとなった。

 

勝頼は領国経営に努め、また軍を立て直すべく兵農分離による近代化を推し進めようとした。富士川水系による物流を整備し、金山の開発を実施し、さらに鉄砲隊の充実を図り、火薬の原料である硝石が国内では得られないために、駿河の江尻(清水)を拠点に貿易を促進しようとした。このような勝頼の動きを信長は看過できず、武田勝頼に対して和議を申し出たが、勝頼はこれを拒絶。そのうえ将軍足利義昭が主導する「甲相越一和」に応じ、上杉氏・毛利氏・本願寺勢力と結び信長包囲網を形成した。織田信長は再び何としてでも武田勝頼を滅ぼさなくてはならないと強く決意するに至った。 

 

 

14. 越後の「御館の乱」と甲相同盟の決裂

 

天正六年(1578年)、越後では上杉謙信が急逝した。後嗣を定めていなかったため、後継をめぐっての内乱(御館の乱)が生じたのである。謙信には子がなかったため、小田原の北条氏康の子が謙信の養子として上杉に入り謙信の幼名「景虎」を与えられていた。しかし、謙信の姉の子である「景勝」を後継に支持する声が高まり、両派の間で後継をめぐって内乱が勃発した。

 

北条氏政は関東の情勢が緊迫していたために越後まで兵を送れず、甲相同盟に基づいて勝頼に景虎支援のため越後への出兵を依頼した。氏政の依頼で、勝頼は景虎を支持して越後に兵を送った。勝頼は越後へ出兵し、両者の調停を試みるが、景勝側との接触により外交方針を転換し、景勝に妹の菊姫を娶らせ甲越同盟を結んだ。この背景には、側近の跡部勝資と長坂釣閑斎が、景勝側からの贈賄に応じ、勝頼を景勝との同盟に誘導したためとの説もある。天正七年(1579年)、景勝が乱に勝利し景虎は自刃している。

 

甲越同盟の成立により甲相同盟は再び破綻。勝頼による西上野への侵攻などにより、北条氏政との対立は激化した。勝頼は、常陸の佐竹義重と甲佐同盟を結び、また安房の里見氏へ働きかけて北条氏包囲網を構築しようとした。一方、北条氏政は徳川家康と同盟し、そのため駿河・遠江の武田領国は両軍から挟撃される事態となり、徳川軍によって遠江の城を次々と奪われる結果となった。

 

 

15. 高天神城の陥落と織田信長の謀略

 

天正八年(1580年)。満を持して徳川家康は遠江の堅城・高天神城の攻撃に踏み切った。城の周辺に五つの山砦を構築し、さらに、武田勢が城から打って出ないように城を取り囲むように堀を築き、その背後には何重にも柵を回らして鉄砲衆と兵を配備し籠城へと追い込んだ。

 

一方で信長は、上杉景勝家臣の新発田重家に謀叛を起こさせ、景勝の武田勝頼への援軍を封じている。また、本願寺顕如は信長との講和を受け入れて大坂を退去したため、信長は畿内一帯を支配下に置くこととなり、勝頼は上方の同盟国を完全に失うこととなった。このような状況下で、八王子城の北条氏照が甲斐へ侵攻し、武田家は徐々に追いつめられていった。

 

勝頼は信長との関係改善を図るために、甲佐同盟の佐竹義重を通じて織田信長に和睦を持ちかけた。信長は、最初から締結する意思のない武田との和睦交渉を行った。この交渉が続けられている限り、武田勝頼は織田・徳川方に対して攻勢に出られなくなる。

 

勝頼は、信長との和睦という方法で高天神城を救い出そうと考え、軍事行動による救援を控えた。しかし、それこそが信長の策略であった。高天神城の城将・岡部元信は勝頼に援軍を求めた。信長との交渉がうまくいきそうな見通しが出ている中で、追いつめられる高天神城の状況に焦燥し救出に出陣しようとする勝頼を、側近や重臣たちは必死に押しとどめた。

 

ついに高天神城の籠城衆は家康に降伏を申し出た。しかし、信長は降伏を受け入れないように家康に指示している。その結果、天正九年(1581年)高天神城は陥落。兵糧尽きて大半の将兵は城内で餓死し、城将・岡部元信以下、生き残った兵は城を打って出て徳川軍陣地に一斉に突撃し六百余人が玉砕した。戦死した武将は、錚々(そうそう)たる武田領内の有力な国衆ばかりであった。これによって勝頼は家臣を見捨てたということになり、勝頼の威信は地に墜ちた。信長の巧みな謀略と情報操作であった。土屋惣藏昌恒の正室は、この岡部元信の娘であり、元信は昌恒の義父にあたる。

 

信長は、早くから武田家の一門衆や家臣の中から、密かに内通者を募っていた。『甲陽軍鑑』によると、天正八年(1580年)頃から、武田氏の先方衆をはじめ、譜代衆や御一門衆の中からも内通者が出始めたと記している。駿河の先方衆は徳川家康に内通する動きを始めており、武田譜代衆や御一門衆の中にも岐阜城主の織田信忠に内通する者もあった。勝頼の側近、跡部勝資(あとべ・かつすけ)や長坂釣閑斎(ながさか・ちょうかんさい)らは、武田家中に不穏な動きがあることは察知していたが、これらの情報を勝頼の耳に入れることはなかった。

 

高天神城遠景

 

Wikipediaより


 

 

16. 木曾義昌の謀叛

 

武田家は益々窮地に追い込まれていった。高天神城の落城から一か月後に、再び北条軍による甲斐侵攻が行われている。織田・徳川・北条から挟撃される中で、従来からの甲府の「躑躅が崎館」では十分な防衛はできないとの認識から、勝頼は新府城(現韮崎市)の築城を決意した。

 

やがて信長は、嫡男の織田信忠に命じ、勝頼の重臣・秋山虎繁の守る岩村城を包囲させた。勝頼は、妹・真理姫の夫で、信濃の有力国衆であり御一門衆の木曾義昌に岩村城の支援を命じたが、財政的な理由により応じなかった。そのため岩村城は陥落。城主の秋山虎繁は、兵の助命を条件に降伏したが、信長は虎繁を処刑するとともに城兵の全てを虐殺したのである。以降、勝頼は木曾義昌に対して不信感を拭えず、両者の関係は冷たいものとなっていた。

 

長篠敗戦以降、武田勝頼は、織田・徳川による反攻が、信濃・美濃・三河の国境で始まることを予想していた。そのため、常日頃から木曾を領する木曾義昌の動向に着目し、謀叛を起こさぬように、また起こしてもすぐに察知できるように対策を講じていたのである。

 

美濃から武田領へ進軍する際には木曾谷は主要な侵攻路となる。織田信長は、かねてより東美濃苗木城主の遠山友忠・友政父子に、木曾谷の木曾義昌を調略するように命じていた。

 

そして天正十年(1582年)1月25日、木曾義昌は苗場城主・遠山友忠を通じて、岐阜城の織田信忠に忠節を尽くすことを申し入れた。その報は、ただちに安土城の織田信長に伝えられた。これは信長による長年の謀略の成果でもあった。

 

1月27日払暁(ふつぎょう)、木曾義昌側近の千村右京進が、ただ一人で新府城に馳せ参じ、土屋右衛門尉昌恒に木曾義昌謀叛という驚愕の情報をもたらした。即座に勝頼の知るところとなり、勝頼は木曾義昌攻撃のために大規模な軍勢の派遣を決意した。

 

1月28日、勝頼は従弟の武田信豊を主将に、山県昌満・今福昌和などの三千余騎を信濃府中(深志=現・松本)から木曾谷へ侵攻させ、それを支援する部隊として、高遠城の仁科信盛を主将に、諏訪頼豊ら二千余騎が、上伊那口より木曾谷に向かわせることとした。さらに、深志城(現松本城)の馬場美濃守(信春の嫡子)の将を鳥居峠の背面へと迂回させて木曾勢を分断する作戦であった。

 

2月1日、木曾義昌は武田軍の侵攻に直面し、信長への帰属を明らかにして援軍を要請した。その要請を受けた苗木城の遠山友忠は、岐阜城の織田信忠に言上。信忠は家臣を安土の信長の下に送り事情を説明させた。信長は、至急に軍勢を木曾義昌のもとへ派遣すること、そして義昌から人質を取ることなどを指図し、自らも出陣することを宣言した。これを受けて、義昌は実弟の上松蔵人を織田氏に差し出している。

 

2月2日、勝頼は木曾義昌を征伐すべく、自ら嫡男の信勝とともに新府城を出陣し、一万五千余の軍勢を率いて諏訪上原城に入った。武田典厩信豊・小菅兵衛尉・小山田信茂・安倍宗貞・真田昌幸・土屋昌恒らの一門衆や側近の名が散見される。勝頼は、木曾攻略に向けて諸方面へ指示を出した。尚、勝頼は出陣にあたって、人質として預かっていた木曾義昌の母・側室・子供を刑に処している。

 

 

17. 武田征伐の開始と浅間山の大噴火

 

2月3日、信長は安土城より各方面へ武田領侵攻を下知した。信長側近の森長可と木曾義昌は、先鋒隊として木曾口から、織田信忠と信長の率いる本隊は伊那口から、また家臣の金森長近は飛騨口から、そして同盟者の徳川家康は駿河口から、さらに同盟者の北条氏政は関東口からと定められ、武田領国に侵攻することとなった。織田信忠に従ったのは、滝川一益・河尻秀隆・毛利長秀・水野守隆・水野忠重らである。

 

2月6日、下伊奈の滝沢城は、信玄の妹婿・下条信氏が守備していたが、一門や家老から織田方へ内応するよう促され、それを拒否したために追放されてしまった。滝沢城は戦わずして織田方に落ち、岩村口は簡単に突破されてしまったのである。

 

2月14日、松尾城主の小笠原信嶺が織田方に帰属する旨を申し出た。小笠原信嶺は武田逍遥軒信綱の息女を正室としており、松尾城は下伊那防衛の要でもあった。武田の御一門衆である下条・小笠原両氏の謀叛を知った下伊那衆は、雪崩を打つがごとく武田家を見限り、織田軍の下へと参集した。

 

騒然とする中で、伊那の拠点の一つである飯田城には保科正直らが在城していた。この飯田城に、新たに勝頼からの援軍が派遣されたが、両者間の連携に齟齬が生じ士気を喪失させる事態となった。そのうえ、城の曲輪(くるわ)内に避難していた地下人(土豪や有力百姓層)が、夜襲との噂に一斉に逃亡を始めたため、籠城衆も内通者がでたものと勘違いし我先にと逃げ出したのである。織田信忠は、戦わずして飯田城を手中にすることが可能となった。

 

2月14日の夜に、浅間山が48年ぶりの大噴火を起こした。京都からも東方の空が大焼けのように真っ赤に染まり天空を覆いつくすのが望まれ、「武田家滅亡の予兆」との噂が流れた。当時の人々には、浅間山の噴火は東国異変の象徴という認識があったため、武田氏の家臣や国衆、そして民衆は、もはや天に見放された勝頼を支えようとしなかった。この浅間山の大噴火と織田軍の侵攻により、伊那郡の武田の諸城は動揺し、自発的な開城・降伏・逃走などによる自落、いわゆる「甲州崩れ」が始まったのである。

 

 

18. 木曾谷攻略の失敗と伊那の諸城の自壊

 

2月16日、下伊那口の崩壊が伝えられるなか、勝頼は木曾谷を攻略すべく、ついに軍勢の派遣に踏み切った。勝頼は諏訪上原城から塩尻に陣をすすめ、武田信豊を主将に、鳥居峠の攻略に今福昌和の率いる軍勢三千が投入された。討伐軍は奈良井より鳥居峠へ向かったが、山道は急峻で切り立った断崖を脇に控える難所であり、しかも残雪も深くて足場は極めて悪く、峠を攻めあがる武田軍にとって状況は不利であった。一進一退を繰り返していたが、諏訪頼豊らの別動隊が到着し、困難を強いられていた先頭の部隊を援助したため形勢は一時有利となったが、木曾軍の別動隊が武田軍の脇を突いたため、結局は峠の攻略を果たせず、追い落とされる結果となってしまった。武田軍は大敗を喫し多くの兵を失った。このとき、深志城(現松本城)の馬場美濃守(信春の嫡子)は、勝頼の命で、深志衆の古畑・西牧の両将を鳥居峠の背面へと迂回させ、木曾勢を分断する予定であったが、両将が木曾義昌と内通し、逆に鳥居峠の背面に通じる道を塞いでしまったために、馬場美濃守は動きを封じられ、奈良井から鳥居峠に向かう武田本隊と連携を取ることが不可能となってしまった。

 

2月17日、伊那の拠点の一つである大島城は、日向玄徳斎が城代として常駐していたが、勝頼は叔父の武田信廉(のぶかど)ら七百余人を派遣し、一千余人による守備となっていた。城は、兵粮・鉄砲・火薬など豊富に備蓄しており、この城で織田勢を食い止め、その間に勝頼の本隊が後詰に来てくれれば、双方の死力を尽くした決戦が展開されるだろうとの予想であった。しかし城下の地下人が、織田方に寝返って大島城の外曲輪(そとくるわ)に放火したため、武田信廉は夜陰に紛れて脱出し甲斐へと逃げ帰った。これを知った籠城衆は自壊し全員が逃亡したのである。

 

2月19日、深志城の馬場美濃守は、それまで武田方に従っていた岩岡・二木両氏が反乱を起こしたために孤立。筑摩・安曇郡の武田領国も崩壊の危機に見舞われることとなった。この日、武田勝頼の正室・北条夫人は、武田氏の氏神である武田八幡宮に願文を奉納している。その一部に、「木曾義昌がこれまでの恩寵を顧みず、人質の母まで捨てて敵に通じ勝頼に刃を向けた。勝頼は運を天に任せ、敵を打つために出陣していった。だが勝利はおぼつかず、士卒の心もまちまちである。」と記している。

 

 

19. 穴山信君の寝返り

 

2月20日には、北条氏政が武蔵国の多摩川まで進軍し武田領への侵攻口を模索しており、翌21日には氏政の弟・北条氏邦が上野(こうずけ)を侵略している。この間、武田勝頼は諏訪に布陣していたが、相次ぐ敗戦と味方の離反によって進退窮まっていた。勝頼はついに上杉景勝に援軍を要請した。景勝は援軍を約束したが、柴田勝家による上杉領侵略を防御し、新発田重家による反乱を鎮圧するのに精一杯で、とても武田へ援軍を送れる状況ではなかった。

 

一方、徳川家康は遠江を完全に掌握して駿河への侵攻を開始。駿河は、江尻城を本拠とする御一門衆の穴山信君と、駿河先方衆の朝比奈信置によって守られていたが、穴山信君はかなり以前から家康と内通しており、2月25日に古府中(甲府)に留められていた身内の人質を奪還すると、織田・徳川方に味方することを明らかにした。朝比奈信置は、信君の寝返りで進退窮まり、用宗城を退去し家康の軍門に下った。

 

勝頼は諏訪上原城に在城していた。迫りくる織田軍に対して、塩尻峠か有賀峠で武田家興亡の決戦を行うことを評定で決定し、その準備に余念がなかった。しかし2月27日に、甲斐からの飛脚で、御一門衆筆頭・穴山信君の離反を知らされたのである。勝頼は驚愕し、伊那や木曾から怒涛のように迫る織田軍と、甲斐に迫りくる徳川軍に挟撃されることを恐れ、諏訪を退き甲斐の新府に帰還することとなった。織田軍との諏訪での決戦は、穴山信君が駿河で家康の侵攻を防御してくれて初めて成り立つ作戦であった。 

 

 

20. 高遠城の籠城戦

 

2月29日、織田信忠は、武田家の伊那における最後の拠点・高遠城の城将・仁科信盛ら籠城衆へ降伏勧告の書状を送った。しかし、家臣の小山田昌成・昌貞兄弟は、「自分の命は主君・勝頼に捧げている。飯田・大島両城の臆病者どもが、敵が来ぬうちに命を惜しんで城を捨てて逃げ出し、名を落としただけでも悔しいのに、まさか高遠城までもが敵に誑(たぶら)かされて城を明け渡すことはない。我ら兄弟は鑓(やり)や刀が折れるまで戦って討ち死にする所存である」と主張した。これを聞いた信盛は満足し、居並ぶ諸将もこれに賛同した。仁科信盛は、勝頼の異母弟にあたる。

 

3月2日、織田軍は軍勢を三手に分け高遠城を囲んだ。武田軍は、織田軍の来攻を待ち受けていたので、城内は静寂に包まれ、最後の決戦に士気は上がっていた。小山田備中守昌成は、仁科信盛に、今日を限りの命であるからには、城の外に出て合戦すべきであると言上し、「信盛はその様子を城内から見物していて欲しい。一合戦したら自分は城内に戻るので、その後、御自害なされるがよい。備中守も冥途へのお供をしたい」と述べると、実弟の昌貞と渡辺金大夫ら五百余騎を従えて、大手口から打って出て、数刻にわたって激戦を展開した。

 

存分な戦いをした小山田隊は、大手口まで退却してここで小休止し、そして昌成は「端武者に構わず、織田信忠一人を討取れ」と将士に呼びかけ、最後の決戦を挑むべく、残りの将兵を率いて信忠軍に突入していった。しかし、昌成は目指す信忠を発見できず、股肱と頼む渡辺金大夫も戦死し、自身も深手を負い、将兵も残りわずかとなったため城内へ退却した。仁科信盛は小山田兄弟の武勇を誉め、今度は信盛自らが参戦しようとした。すると小山田兄弟は、大将とは士卒に戦をさせ、自身は指揮するのが本分であり、もし進退窮まれば尋常に切腹することこそが大将の役目であると言上し最後の支度を急がせた。

 

織田軍は全軍に城内への突入を下知した。城内で戦ったのは男ばかりではなかった。武田方の女房衆も刀を抜いて織田方へ突入して存分の働きをした。特に、諏訪勝左衛門尉の女房の活躍は、「比類なき働き前代未聞の次第」と織田軍に讃えられた。また十五、六歳の美貌の若衆も、たった一人で弓を構え、織田の士卒を多数射倒し、矢が尽きると刀を抜いて戦い、壮烈な戦死を遂げた。落城が迫ったとき、信盛らは本丸の櫓に上がり、小山田兄弟らと別れの盃を交わし自刃した。信盛は享年26歳。 

 

 

21. 織田軍の諏訪侵攻と諏訪大社の炎上

 

3月3日、高遠城を陥落させた織田信忠は、翌3日に高遠を発ち、杖突峠を越えて諏訪に着陣した。上諏訪に到着した信忠は、諸処を掠奪放火してまわったが、特に武田信玄・勝頼の崇敬があつかった「諏訪大社」に火を放ち、壮麗な伽藍は灰燼に帰した。この諏訪大社上社・下社は、武田勝頼が信濃国の諸郷村から祭礼銭を集め、壮麗な造営が行われたばかりであった。神長官の守屋信実は、三か月後の本能寺の変で信長が横死したことについて、諏訪明神の神罰であると断じている。

 

3日の深夜、高遠城の落城とともに包囲網を突破し新府城へ報告に来た者たちがいた。彼らは勝頼に引見を許され、その場で高遠城が昨2日に落城したことを伝えた。勝頼以下、武田方はその報告に衝撃を受けた。高遠城は他国にも聞こえた要害であり、仁科信盛以下、勇猛の将と屈強の兵卒を一千人余も籠城させ、しかも兵糧・矢・鉄砲・玉薬も十分に配備していたことから、一月近くは籠城して織田軍の侵攻を食い止めるであろうと予測していたからである。

 

高遠落城の知らせに新府城内は大混乱に陥った。すでに織田信忠が新府城攻撃の態勢に入っているなどの噂が飛び、武田方では身分の上下を問わず、新府城から脱出しようとするものが出始めた。彼らは妻子を促して荷物をまとめることに忙しく、作戦の立案のしようもないほどとなった。

 

勝頼は諸将を集めて軍議を開いた。『甲陽軍鑑』によると、勝頼の嫡男信勝が、堂々と父や側近の長坂・跡部、そして御一門衆の武田信豊らが主導してきた方針を批判し、新府城で滅亡すべきだと説いたという。「新府城が未完成だからといっても、もはや帰る場所もない。潔く武田家の家宝御旗・楯無の鎧を焼いてこの場で自刃すべきである」と主張した。さらに「自分の生母は信長の養女で、敵将織田信忠とは従兄弟にあたるため、織田に近いと思われるため諫言できなかったのだ」と語った。これには、さすがの勝頼以下重臣達も言葉がなかった。

 

すると、真田昌幸が上野国岩櫃城(いわびつじょう)に籠城するように献策した。一方、譜代衆の小山田信茂は都留郡岩殿城へ落ち延びるよう進言。側近の長坂釣閑斎が信茂は武田家の譜代であるので信頼に値する旨を勝頼に進言したため、勝頼一族は都留郡に逃避行することになった。

 

諏訪が織田軍によって占領され、諏訪大社に放火されると武田方に動揺が走った。諏訪湖畔に築かれた高島城に籠城していた安中氏は、武田本隊が新府へ撤退し、高遠城が陥落してしまったため、抗戦できずとみて開城した。かくて諏訪は織田方の手に落ちた。諏訪大社から上がる火炎と煙は、新府城からも望めたはずである。 

 

現在の高島城と諏訪大社下社秋宮

郡内の岩殿山城跡

Wikipediaより


 

 

22. 勝頼一行の逃避行

 

3日早朝、新府城に火がかけられ、勝頼主従は郡内に向かって出発した。物資や妻女たちを運ぶため、夫馬三百疋、人夫五百人を出すように国中に触れたが、甲斐の地下人(土豪や有力百姓層)は山野に隠れてしまい、国中は織田軍の侵攻と武田方の敗戦を知り騒然としていて、ついに夫馬も人夫も集まらなかった。勝頼夫人の輿(こし)を担ぐ「輿かき」すら逃げ失せてしまっていたため、家来たちが夫馬一疋を探し出し、草鞍を敷いて北条夫人を乗せたほどであった。

 

勝頼は新府を退去するにあたって、武田信豊を呼び寄せた。勝頼と信豊は幼年期から仲が良く、勝頼が家督を継いでからは信豊を重用していた。信豊は勝頼に同道することを願ったが、勝頼は信豊に信濃国を譲与すると伝え、小諸城を足場に、舅の小幡信真らを頼み、真田昌幸や内藤昌月らと協力して上信の軍勢を集め、信長が勝頼の後を追って甲斐に侵攻したら、後詰めをするように依頼し、佐久衆や上野衆を付けて城を去らせた。勝頼の最後の作戦は、郡内の小山田衆とともに勝沼で織田軍を防ぎ、その間に小諸城で上信の軍勢を集めた信豊軍が、織田軍の背後を封鎖するというものであった。

 

北条夫人、元諏訪頼重夫人、そして異母妹で仁科信盛の実妹・於松(松姫=織田信忠の元許嫁)を始めとして女性と子供たちはおよそ二百人余であった。さまざまなものが散乱し、夫とはぐれてしまった女房や、親の姿を失った子供たちが泣き叫ぶ中を、一行は郡内を目指した。女子供の多いこの一行は、敵が後ろから迫っているという流言に怯えながら転ぶように歩いた。慣れぬ険しい道のりを歩いたため、足には血が滲み、脱落する者が続出した。その落ち行く様は、かつての栄華を誇った武田家にとってはあまりにも惨めなものであった。

 

勝頼一行は、やっとの思いで甲府へ到着し、一条信龍の屋敷で休息を取ることができたが、すでに甲府は混乱の極みにあった。勝頼に従っていた旗本衆なども、自分の妻子が心配になり、次々と領地へと戻ってしまい、かくて勝頼一行の数は激減し、もはや七百人に過ぎなくなってしまった。

 

やがて、一行は勝沼へ向かったが、途中甲府善光寺に立ち寄った。病身の家臣・小幡豊後守昌盛が土屋昌恒を奏者に頼み、勝頼に謁見を願い出て暇乞いをした。小幡は既に歩行も困難であったために籠輿に乗ってやって来たのであるが、勝頼は落涙して彼の忠節を賞した。小幡は籠輿に乗ったままで、しばらく勝頼の警護を行い在所へ戻った。その三日後、小幡は武田家の滅亡を知ることなく死去している。

 

この日の夕方、ようやく勝沼柏尾(かしわお)の大善寺に到着した。途中で落伍する者、逃亡する者が続出。人数はさらに減っていたという。一行を理慶尼(甲斐武田家の一族・勝沼信友の娘で、信玄の従妹にあたる)が出迎えた。北条夫人は自らの運命を悟り、夜通し本尊の薬師如来に祈願を続け、「西をいで 東へゆきて のちの世の 宿かしわをと たのむ御ほとけ」と詠んだ。

 

ところが、勝頼一行がやって来たことを知った近辺の人々は、自らの家に火をかけて退散した。勝頼を迎え入れたと織田方に誤解されるのを恐れての所業であった。この火事に驚いた従者たちの多くは散り散りに逃亡してしまい、勝頼の奥近習(主君のそば近くに仕える者)のほとんどがいなくなり、土屋右衛門尉昌恒が側に供奉するだけとなってしまった。

 

信濃に目を転じると、織田信忠が諏訪に進軍し諏訪大社に放火すると、鳥居峠で情勢を窺っていた織田長益や木曾義昌らは、筑摩郡の深志城(松本城)に迫った。義昌は、被害を避けるために諸将に調略を依頼し、馬場美濃守を説得して開城させたのである。馬場美濃守は織田長益に城を受け渡して退散したが、その後の生死の程は明らかでない。

 

3月4日、勝頼は、夜明けとともに柏尾大善寺を後にして、駒飼(こまかい)宿の石見何某(いわみ・なにがし)のもとに辿りついた。この日の夜半、勝頼の許しを得て、譜代衆の重臣・小山田信茂は、笹子峠を越えた郡内にある要害の城「岩殿山城」に勝頼一行を迎える準備のために、生母ら人質を連れてひとまず先に目立たぬように駒飼を発っている。

 

勝頼一行はここで小山田信茂の迎えを待つことにした。勝頼は、東へ落ち延びる途中、自らの運命を悟り、遺品を高野山に送り菩提をともらうことを考えた。そこで、甲斐一宮の慈眼寺の僧・尊長に遺品と金子(きんす)を託し、これを高野山持明院に送り届けてくれるよう依頼した。勝頼の遺志を実現させた尊長の努力によって、武田家の数少ない遺品が今日まで残されることとなった。このことが原因か、慈眼寺は織田軍によって掠奪放火され伽藍は灰燼に帰している。

 

駒飼に滞留すること七日、勝頼は小山田信茂が迎えを寄こすのを待っていたが、いつまで経ってもその気配がないので、家臣に小山田を迎えに行かせたところ、笹子峠で多くの武者が陣取って行く手を塞ぎ都留郡へ入るのを拒んだ。驚いた家臣がこのことを報告すると、信茂に騙されたことを察した勝頼は「かのものに、誑(たぶ)かれしことの口惜しさよ」と嘆じたといいう。

 

信茂が変心したとの情報は、たちまち駒飼に在留する家臣らに伝わり大騒ぎになった。勝頼を見限った者たちが、駒飼の各処に放火して立ち退いたので、騒ぎはいっそう大きくなった。勝頼に同道していた駿河国沼津三枚橋城主の曾根河内守と掃部助兄弟が、申し合わせて陣屋に火を放って、笹子峠へと向かい小山田信茂に合流したのである。これを知った勝頼の供衆は、怖じ気づき散り散りになって逃亡してしまい、女子供も含めて百人足らずの小勢になってしまっていた。そして気づいてみると、勝頼の側を固めていた側近の長坂釣閑斎光堅、秋山摂津守昌成、秋山内記、小山田彦三郎らも姿をくらましていた。彼らは土壇場で勝頼を見捨てたのである。

 

3月11日。小山田信茂に離反された勝頼は、もはや甲府に戻ることもならず、行き場を失っていた。勝頼主従は、この日の朝、駒飼を発ち「天目山棲雲寺」を目指して日川渓谷に足を向けた。 

 

甲斐善光寺本堂

大善寺山門と本堂

 

Wikipediaより


 

 

★歴史家の平山 優著「武田氏滅亡」角川選書刊と、長谷川 貴也著「亀城の軌跡」常陽新聞社刊から多くを引用させて頂きました