イスラームとキリスト教は一つ

【ラーマクリシュナの宗教観】

19世紀のインドの大聖・ラーマクリシュナは、万教同根について以下のように言及されています。

 

どの道を通っても神様のところへ行ける。

どの宗教だって真実(ほんとう)だよ。

屋根に上がることが問題なんだ。

それは石の階段でも上がれる。

木の階段でも上がれる。

竹ハシゴでも上がれる。

それから綱をよじのぼっても上がれるし、竹竿を使って高飛びしても上がれるわけだ。

 

しかし、どの宗教にだって間違いはあるよ。

誰もが自分の時計だけ正しいと思っているんだよ。

 

神様を慕う心があれば、それでいいんだ。

あのお方が大好きになって、求める気持ちがあればそれでいいんだ。

 

 

【宗教カルマ】

霊覚者や聖者が、直接人々に対して、それぞれの機根(きこん)や資質に応じて「教え」を説かれている間は良いのですが、彼らがこの世を去った後、真理を直覚していない人たちによって、教学や神学が整備編纂されるようになると、教義への盲信と捉われが生ずるようになり、教義に合わないものを異端として排撃したり、教義の解釈についての論争が生じるなど、時代を経るとともに嫌な宗教臭が漂いはじめます。

 

このように、宗教的カルマ(業 ごう)が濃密になってくると、宗教の本来の目的である「大調和」とはおよそ相反(あいはん)する、もはや宗教など無い方が良いというような深刻な事態となってまいります。

 

キリスト教徒とイスラーム教徒との対立などは、まさに宗教的カルマそのものと云ってもよいのではないでしょうか。神が喜ばれる状態でないことは明白であります。

 

しかし近世以降、先に挙げたラーマクリシュナのように、万教同根について言及される聖者が数多く出現されるようになりました。中でも、先のブログでもご紹介した澤田沙葉師は、自ら、新宗教の「生長の家」を振り出しに、神道、カトリック、イスラーム・シーア派に身を投じ、それぞれの教えを心から信じ、実践し、高度な宗教体験を踏まえたうえで「万教は同根」と言及されております。このような方は珍しいのではないでしょうか。

 

 

【キリスト教とイスラーム】

澤田氏によると、コーランには、イエス・キリストは「インジール」という経典を授かっていると書かれているそうです。「インジール」と言うのは、神の啓示そのものであって、人によって書かれたものではないとのこと。

 

12世紀イランの世界的な大詩人であり、イスラームの奥義に精通し、スーフィ(イスラム神秘主義)の大家であるハーフェズのところへ、ドイツから求道者が訪れ、イスラームの秘伝・奥義を継承し、ドイツに帰って「薔薇十字団」を結成しました。これが、今日のブラバッキ―の「神智学」や、シュタイナーの「人智学」へとつながって行くわけですが、その過程でゲーテが登場してきまして、イエス・キリストに「インジール」という神からの経典が授かっていることを「西東詩集」のなかで詠っております。

 

これは、イエスキリストが神に直結した覚者であることを物語っていることになります。

 

コーラン61章6節に、「メシア・イエス」のことが記されていて、イエス・キリストは「私の後にアフマッドという御使いがくる」と予言したとあり、これは非常に重大な問題であると述べられています。また、「ヨハネの福音書」16章によれば、イエス・キリストは十字架にかけられる直前に、わたしの後に「聖霊」あるいは「擁護者」がくると予言されたとあります。この「聖霊」とか「擁護者」という言葉は、当時のギリシャ語で記された聖書からの翻訳であって、イエスが話されていたアラマイ語(アラム語)では、果たして実際に何と言われたのでしょうか。

 

このように、イエス・キリストは、自らが世を去った後に、再び神の使命を帯びた存在がこの世に来ることを語られているのです。

 

さて、イスラームの礼拝は、コーランの第一章であるファーティマ(開扉章)を唱えることから始まります。まず、「ビスミル・ラーヒル・ラフマニール・ラヒーム」という言葉を唱えるのですが、これは「慈悲深く、慈悲あふれる神のみ名によって」と訳されています。アッラーは、敵も味方もない、異教であろうがなんであろうが、すべてを平等に愛する方であることを明確に教えられているわけです。

 

その次に、「イフディナー・スィラタール・ムスタクィーム」という節が続きます。このムスタクィームは、通常「正しい道」と訳されていますが、澤田氏は、アラビア語研究の結果、「復活する道」というのが本来の意味であると主張されています。

 

従来、この節は「私たちを『正しい道』に導きたまえ」と訳されていますが、澤田氏が主張されるように、「私たちを『復活の道』に導きたまえ」というふうに理解するとき、それはすなわち「私たちを『キリストの教えた道』に導いてください」ということになるわけです。

 

また、コーランの中には、数えきれないほど「復活」という言葉が出て来ます。ところがこの「復活」という言葉は、多くの場合「審判」というふうに訳されています。それは何故かと云うと、キリスト教が「復活、復活」というからのようで、これを嫌って「審判」などと訳していますが、それでは何故コーランが啓示されたのかが、全く分からないことになってしまうそうです。

 

さらに、メッカのカーバ神殿の上には、聖母マリアとイエス・キリストのイコン(像)がなければならないというのですから驚きです。しかもそれが、予言者マホメットが伝えた真のイスラームの教えであるというのですから、驚天動地のことではないでしょうか。

 

ロンドンに「ムハマディ・トラスト」という大きなイスラーム団体があり、その団体から、サイード・フセイン・ナスルというイスラームの権威者が「アラーの人、ムハムマド」という本を出しておられますが、上記のことはその本の中で述べられているそうです。

 

さらに澤田氏によると、大阪外国語大学の井本英一氏は、日本におけるペルシャ学の最高権威と言ってもいい方なのですが、その井本氏が、いろいろな文献を調べているうちに、先に述べたことと全く同じ、カーバ神殿の上に聖母マリアとイエスのイコンがなければならないという記述にぶつかって、びっくり仰天したと語られているそうです。さらに、氏はそれについて徹底的に調べた結果、間違いないと確信されまして、これは大変なことだと本に書かれているとのこと。

 

マホメットは、メッカで生命の危機にさらされ、殺されそうになりました。そこで、西暦622年にメディナへ遷りましたが、これをヒジラ(聖遷)といいまして、この時を以てイスラーム元年と定めております。それから10年後、マホメットは無血でメッカに入城しました。

 

マホメットは真っ先にカーバ神殿に行き、数多くの怪しげな偶像を全部叩き壊させました。その時、マホメットはカーバ神殿の壁の上にあった、聖母マリアとイエスのイコンの上に手を置いて、それを取り除かないように守ったと記されています。とにかく、これは好むと好まざるとにかかわらず、厳然たる歴史的事実のようです。

 

以上のことは、キリスト教とイスラームも、本来は一つという事を示唆しているのに他なりません。

 

 

【東方へ伝わったイエスの教え】

イエス・キリストが昇天したあと、十二使徒の多くが各地へ宣教に出ましたが、使徒の一人、トマスは一旦シリアに残りました。トマスの主張によれば、イエス・キリストはアラマイ語で教えを説かれたので、イエスの真の教えの意味を知ろうとすれば、アラマイ語に拠らなければならないと言及されたそうです。

 

そのトマスの教会は、最初の頃はシリアを本拠としたために、「シリア東方教会」と呼ばれていました。その後、ペルシャへと移動し、一時は「ハーシ教」、それから「ミシア教」と称し、中国へ入って「景教」と呼ばれるようになりました。この流れが日本へ入ってきて、「稲荷」となったと言われています。

 

景教は、その実態がほとんど不明なまま、世界から忘れ去られてしまいました。ところが、徳川三代将軍・家光の時代に、中国の西安から「大秦景教中国流行碑」が発掘され、俄然脚光を浴びるようになりました。しかし、この碑に書かれていることは極めて難解で、簡単に理解できる代物(しろもの)ではありませんでした。

 

戦前、早稲田大学の佐伯好郎博士が、これを徹底的に研究され、私財を投げうって『景教』という大著を出されましたが、肝心要のところがよく分からないとされています。澤田氏によると、その謎を解くには、イスラームとの関係を紐解かなければならないそうです。

 

 

【イエス・キリストとマホメット】

マホメットが幼少のとき、叔父に連れられて、隊商に加わりシリアを旅しました。その当時、シリアにはキリスト教きっての大学者として名を馳せていたバヒラ・セルギウスという人物がいて、シリア東方教会(即ち景教)の修道院長を務めておりました。

 

マホメットを伴った隊商が近づいてくると、修道院の二階からそれを眺めていたバヒラは、大変な人物が来たことを霊的に直感いたしました。そこで、修道士を遣わして、一行を修道院に丁寧に招き入れたのです。少年だったマホメットは外で待っていましたが、バヒラは、私が用のあるのはあの少年だから、呼んで来てくれと告げるのでした。

 

入ってきたマホメットを見て、まず「この児の父は誰か?」と聞くと、隊商のメンバーが叔父を指さして、「彼がこの児の父です」と言いました。「そんなはずはない、この児の父は死んで孤児のはずだ」と言うので「どうしてそんなことが分かるのですか」と尋ねると、昔から伝わっている巻物の中にちゃんと書いてあると説明します。その巻物には、「背中に或る印を持った最後の予言者が出現する」と書かれてあったと言います。

 

そこでバヒラは、とにかく背中を見せてくれと言って、別室でマホメットの背中を見ると、確かに痣(あざ)がある。それを見たバヒラは、巻物に書かれているその印と照合して、このマホメットこそ、昔から出現すると予言されている予言者に間違いないと確信するわけです。

 

その印というのは、リンゴの一種であるアカナシの形をしていたと伝えられています。アカナシを漢字で書くと「柰」と言う字になります。この「示」という字の「丁」は祭壇を表し、その上にある「一」は祭壇に置かれた犠牲を意味します。祭壇に犠牲を置くと血が流れ落ちる。その有様を表現したのが「示」という字なのです。また「柰」は、「木」を祭壇にして、犠牲から血が流れ落ちることを示しています。これは言うまでもなく、十字架に磔(はりつけ)になっているイエスを表したものなのです。

 

つまり「柰」という字は、イエス・キリストを表すと同時に、マホメットを表しているわけです。

 

このキリスト教きっての大碩学(だいせきがく)であったバヒラは、その後、コーランの奥義を知るうえで最も重要な人物となり、イスラームにとって重大な役割を果たすことになりました。

 

そういうわけで、キリスト教とイスラームは完全に一つで、イエス・キリストの奥義や叡智、そして太古から伝わっていた秘伝がイスラームに流れ込んだのです。それで、キリスト教側だけでは分からなくなってしまったというのです。景教についてあれほど研究した佐伯博士が、結局のところはよく分からないというのは、こういう事情があったためです。つまり、イスラームが分からないと、景教が分からないようになっているのだそうです。

 

このように、イエス・キリストの奥義や叡智、さらに太古からの秘伝が、バヒラ・セルギウスを通じて予言者マホメットに伝わって行くわけですが、その秘儀は娘ファーティマの婿であるアリー(初代イマーム=導師)を通じて、次代イマームであるイマーム・ザマーンへと伝わって行きます。

 

日本では平安初期の頃、このイマーム・ザマーンは「グアイブ」の状態、すなわち肉体界を超越し高次元の世界へと移行しました。現在でも、世界中どこにでも自在にその姿を現されるといわれています。そして姿を現すときは、イマーム・ザマーンとは誰にも全然分からないような姿で現れるとされています。断食とか祈りなどの修行を積んで、霊的にある高さに達した人なら誰でも会うことができると言われています。

 

また、イマーム・ザマーンは、「ジャミーア」という宇宙の全てが記された巻物と、「ジャファル」という世界中の宗教の全てについて記された巻物。そして、マホメットの娘・ファーティマから伝わった本と、マホメットからアリーを通して伝わった「ズル・ファッカル」と呼ばれる宝剣を受け継いでいるそうです。

 

このイマーム・ザマーンが地上に出現する時には、次のような現象が起こるといいます。予言者の伝承によれば、地上に遣わされている御使いたちが一斉に名乗りを上げて、イマーム・ザマーンの中核をなし、大天使ミカエルと大天使ガブリエルが両側についてイマーム・ザマーンを守ります。その時が、イエス・キリストが降臨する時でもあるとされているのです。

 

 

【昭和の大覚者・五井昌久先生の語った秘儀】

この、イエスとマホメットの関係について、昭和の大聖・五井昌久師(1980年8月神去られました)が、大変示唆に富むことを語られています。

 

五井昌久師は、大正5年(1916)11月22日に東京浅草に生まれました。苦学しつつ音楽を勉強されましたが、終戦まで日立製作所亀有工場に勤務し、戦後退職されました。その頃より求道生活に入り、「天と地をつなぐ絲目のひとすじとならむ」との願いから、厳しい霊修行に励み、ひたむきな神への全託へと心が深まり、ついに神我一体、空即実相の調和せる心境に到達され、全てを捨て、全てを獲得しうる自己へと生まれ変わられたのです。

 

五井師は、マホメットについては何も知らず、コーランも読んだこともなく、この世に伝わっているマホメットの教えについては全く知らなかったのですが、ある日、ふとマホメットのことが意識されました。すると、イエスが出現されて、マホメットについてイエスから直接教わることになったのです。

 

それによると、「マホメットはイエスの分身(分霊)」であるとのこと。

 

現在は、「救世の大光明」の中に実在され、「シャンバラ」を主宰されており、「マホメット」とは名のられていないそうです。地球のエネルギー・センター、即ち人間における頭頂チャクラに相当する場を「シャンバラ」と呼んでいる由。

 

五井師が会われたマホメットは、とても柔和で調和的な方でありました。

 

地球を主宰する神霊を、ヨガなどでは「地球霊王」と呼んでいます。しかし、地球の業(ごう)が限りなく深いため、地球霊王のみの働きでは浄めることが難しくなくなったため、大神によって「救世の大光明」の働きが加わることにより、やっと浄化できるようになったとのことです。

 

神智学のヘレナ・ブラバッキ―や、アーケインスクールのアリス・ベイリー、そしてシェアーインターナショナルのベンジャミン・クレール等によれば、地球を司るために、1850万年前に金星から降臨された神霊を「サナット・クマラ」と呼び、現在に至るまでエーテル体を纏って活動されているとのこと。さらに、モンゴルのゴビ砂漠上空のエーテル界の上位亜界に「シャンバラ」を発生させたと言われています。この「サナット・クマラ」は、わが国では、京都鞍馬寺の本尊である尊天として祀られているそうです。

 

イエスは、「マホメットの説かれた教えは、いつしか歪められ、誤り伝えられている」と語られたそうです。

 

法然や親鸞は釈尊を敬慕されていましたが、従来からの「仏教の教え」として説くことをせず、新たな「独自の教え」を開かれました。それと同じように、マホメットもイエスを心から敬愛していたのですが、「イエスの教え」として説かないで、「独自の教え」として説かれたのです。

 

そして、マホメットは自ら語られて、「私は世界を大調和にするために来た」と云われたそうです。「右手にコーラン、左手に剣」と伝わっているように、「改宗か、しからずんば死か」などと教えたことは全くないとのこと。誤り伝わっているものは、是正されなければならないと語られたそうです。

 

「降魔の剣」という言葉がありますが、自分の「業」を断ち切る意味で 身を清める意味で「剣」と言う言葉を云ったことはあるが、この世へ戦いのための剣を持ってきたのではないそうです。

 

ダンテの「神曲」では、マホメットは地獄にいることになっていますが、五井昌久師は「それは全くの間違いである」と語られました。

 

★Matsuura, Douhaku氏の公開されている、YouTube上の「五井昌久師の講話番組」のなかに、マホメットに関するものが有りましたので、下記にリンクを貼り付けておきます。ご参考までに。

【イエス・キリストは復活の象徴】

マホメットは、最後の「予言者」であると言われています。コーランには、マホメットは「復活を予言する者」であると書いてあるそうです。

 

ここで述べられている予言というのは、「将来起こるであろうことを予言する」という意味の予言とは異なり、あくまでも「復活を予言する者」という意味での予言者という言葉なのです。

 

「大嘗祭」は神道の最も重要な祭事でありますが、澤田氏は、この「大嘗祭」こそ、まさにコーランの奥意(おくい)を人類に示すものだと言及されています。

 

コーランには、天地創造以来、神は地上の全ての民族や国家に、少なくても一人の御使い、あるいは預言者を遣わしており、その民族や国の言葉で「同じ真理」を伝えられていると述べられています。それこそがイスラームであるそうです。したがって、神道の中にも当然に真理が伝わっているということになります。

 

周知のように、天皇が崩御されると同時に、次に皇位継承権を持つ方が皇位を継承されて「大嘗祭」が行われます。この大嘗祭とは、「御殿の床に八重畳をしき、神を衾(ふすま)でおおって臥(ふ)せさせ、天皇も衾をかぶって臥し、一時間ほど絶対安静の物忌(ものいみ)みをします。これは死という形式をとっているのですが、その間に神霊が天皇の身に入り、そこで初めて天皇は霊威あるものとして復活する」という儀式なのです。

 

コーランには、天地の全ては毎日、時々刻々と死んでは甦る、すなわち復活することで成り立っていると度々述べられているそうです。そして、やがて全世界が復活する時が来るとのことです。そのために、神は天地を創造されたのだということがコーランに書かれており、そのことを伝えるのが予言者であると啓示されているそうです。

 

そういうことを脳裏に入れて、コーランを熟読玩味しますと、「大嘗祭」こそ、まさにコーランに啓示されている奥義を人類に示し伝えるものであることが実によくわかると、澤田氏は主張されています。

 

キリスト教会において、イエスキリストの「ご復活」は最大の福音であり、歓びであります。何故、イエスキリストが生まれたか言えば、この「復活」のためであったということができます。それくらい、「復活」ということはキリスト教会にとって重要な意味を持っております。

 

それに対して、コーランには「イエスキリストは復活の象徴である」と述べられています。このことは、神はこの天地を日々復活させ、最後に宇宙全てを復活させられる。そのためにこそを全てを創造されたのであり、その復活の象徴がイエスキリストであるとのことです。

 

「宇宙すべてを復活させられる」ということは、まさに宇宙の全てを、死に打ち勝って甦らせられるということでもあるのです。

 

五井昌久師が言及されているように、イエス・キリストの分身(分霊)がマホメットであれば、「キリストの復活」を、自らの分身に予言させたということになります。

 

「キリストの復活」とは、人類の個々人の心のなかに、キリスト意識が目覚め、人類一人ひとりが本来の姿である「神の子」に復活することに他ならないのではないでしょうか。その結果、人類は死に打ち勝って甦り、永遠に神と同胞への奉仕に生きる人類となり、地球には真の平和が樹立されるのではないでしょうか。