聖徳太子と唯一神道

【澤田沙葉氏の継承した神道】

澤田沙葉(さわだ・さは)氏という、万教同根の真実を、身をもって証明された不思議な人物がいらっしゃいました。戦前、三高に在学中、友人の強烈な薦めで「生長の家」に入信。修行中に見神されたと伝わっています。

 

やがて、神道の研究に取り組む必要性を感じ、「生長の家」を離れ、水谷清の「古事記大綱」30巻を読破しました。その間に、唯一神道「みすまる秘伝」の継承者で、神道家の故・大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)の存在を知り、真素美と所縁のある「大本」で修行を実践。その後、美濃に住むある人物より唯一神道「みすまる秘伝」を継承しました。

 

「唯一神道」と云うと、室町時代に吉田兼倶(よしだかねとも)によって体系化された神道を「唯一神道」と称することから、これのことと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、それとは異なるもので、古来より連綿と続いてきた「唯一の神の道」ということなのだそうです。

 

同氏は、太平洋戦争が終了すると東大法学部に入学しました。その頃、キリスト教会の牧師からもらった「すべて重荷を背負うものはわれに来たれ」と書かれているチラシを見て、キリスト教に心惹かれたため、上智大学を訪ね、一年間にわたってキリスト教の講座を受講し、カトリックになられたのです。

 

その後、日本のカトリックが政治団体を結成した際に、その団体の事務局長を務め、また、CDWU(キリスト教民主世界同盟)の日本代表として、毎年ローマで開かれる世界大会に出席されて来ました。

 

1979年前後に発生したオイルショックのとき、CDWUとしても、アラブ・イスラム局を設けてイスラーム圏との交流を図る必要が生じたため、澤田ならば異教国の日本出身だから適任だろうということになり、その責任者に任じられました。

 

そのため、イスラームについて学ぶ必要から、岩波版のコーランを七回読破し、「日本ムスリム協会」を訪ねて教えを受けましたが、最長老の三田了一先生と親しくなり、先生から日本のイスラームをよろしく頼むと言われるほどになりました。その後、イスラームに改宗し、やがてシーア派に参入されました。

 

同氏は、全ての宗教は根底では一つであると主張されています。特に、「イスラーム」と「唯一神道」は全く同じであるとまで言及されています。コーランの啓示によれば、神は全ての民族や国に、「み使い」や「預言者」を遣わして同じ真理を教えられたとのこと。それこそがイスラームであるとのことです。

 

 

【唯一神道】

唯一神道の奥義、「みすまる秘伝」によると、その初代の継承者は聖徳太子であるとされています。二代目継承者は天武天皇、三代目は役小角(えんのおずぬ)、いわゆる修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)とあり、以下延々と続き、大石凝真素美(おおいしごりますみ)、そして澤田沙葉氏に至るわけです。

 

平安以来の神仏習合思想では、日本の八百万の神々は、実は様々な仏菩薩が化身として日本の地に現われた権現(ごんげん)であるとされてきました。

 

しかし、室町時代になると、卜部(うらべ)氏の末裔(まつえい)である吉田兼俱(1435~1511)は、本地で唯一なるものを神として、森羅万象を体系づけ、汎神教的な世界観を構築いたしました。「古来の純粋な神道は、天地の根源なる神、即ち無始無終、常住恒存、また絶対なる唯一神に発し、それを伝えるもの」としています。この神道を「吉田神道」と称し、江戸時代に至るまで、神祇管領長上(じんぎかんれい・ちょうじょう)として、全国の神社や神職をその勢力下に収め、神道の家元的な立場にありました。

 

また、皇室の神道である白川神道も、自らの神道のことを「唯一神道」と称しており、明治大帝は最後の白川神道の承継者と言われています。真偽のほどは定かではありませんが、明治天皇の御子にあたる仁(しのぶ)内親王に、天皇自ら、「神道はキリスト教である」旨を密かに伝えられたとの風説があります。

 

さらに、江戸時代の復古神道の祖・平田篤胤は、天地万物に「大元高祖神」が存在し、その名を「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と称すると説き、その弟子の渡辺重石丸は、「天御中主神」とは、聖書の云う神「ヤハウェ」と同一であるとまで主張しています。

 

「先代旧事本紀・神代皇代大成経」(さきつみよの・ふることのもとつふみ・かんつみよ・あめがしたのみよ・おおいなるつねのり)によれば、聖徳太子は、中臣御食子(なかとみのみけこ)から「宗源道(そうけんとう)」と呼ばれる唯一の神を奉じる神道を学びました。「宗源道」は、最も大切な源流の神道の意味であり、大元霊神を拝する唯一神教の神道でありました。聖徳太子は、「一つの大神を伝える。これが宗源(もとつみもと)の道である」とするとともに、仏教徒に対して「わが国は神の国であり、仏の本は神である。仏の跡も神である」と語っています。

 

 

【辛嶋氏の語る神道】

以前、SHIMA占星学研究室のブログで、「辛嶋氏の語る神道の起源」という文章を書きました。その内容は、心霊研究家の(故)桑原啓善氏が、宇佐八幡宮で代々禰宜を務める辛嶋家の一族の方から、直接聞かされた「神道の起源」についてのお話しでした。

 

それによると、辛嶋氏は古代より宇佐八幡宮の禰宜(ねぎ)を務める家柄で、渡来民である秦氏の一派だそうです。そして、宇佐八幡宮の御祭神の一柱となられているオオヒルメ(女性)は、大陸から葦船で渡来し、宇佐の地に定住しましたが、辛嶋氏はその子孫とのこと。

 

このオオヒルメは、母方の先祖が釈尊で、父方の先祖は三千年前の中国周王朝の西周王と伝わっています。

 

天皇がご即位になると、必ず伊勢神宮と宇佐八幡宮においでになりますが、その時、宇佐八幡宮では辛嶋禰宜が直接に天皇へ「皇室の秘事」に関することを口伝でお話しされるそうです。

 

先にも述べたように、辛嶋氏は秦氏の一派でありますので、ユダヤ系の渡来民ということになります。中央アジアに在った弓月国の功満王(こうまんおう)が、ユダヤ系の秦氏二万人を率いて、シルクロードを経て朝鮮半島の新羅に達しました。しかし、日出國(ひいずるくに)を求めてさらに東進したく、わが国への移住を望みました。そこで、応神天皇が秦氏の帰化を認めたため、日本へ渡来したと伝わっています。

 

この伝承については、マルクス主義史観が主流のアカデミズムの世界では未だ認知されておりませんが、東北大学名誉教授の田中英道氏は、この説の可能性を支持されています。

 

その根拠は、古代の古墳(特に関東の芝山古墳群)から出土した埴輪(はにわ)が、当時のユダヤ人の習俗をそのまま表現している点や、4割以上の日本人の細胞核内にあるY染色体(男系間でのみ遺伝される)の遺伝子がユダヤ人と同系統のものであるという科学的事実が判明したからです。さらに不思議なのは、半島や中国の人々には同系統の遺伝子が全く見出せず、唯一の例外として、少数のチベット族の中に同系統の遺伝子が見出せることです。

 

チベット族の中でも羌(きょう)族は、ユダヤ系遺伝子の比率が高いとされています。羌族は、シルクロードロード南側地域と青海地域を版図としていましたが、たびたび支那の中原にも進出して、後秦や西夏などを建国しています。羌族は、シルクロードロードを度々支配したことから、ユダヤ系の人々と接する機会も多く、ユダヤ人との混交が進んだのかもしれません。

 

チベット高原の南側はインドです。紀元前5世紀ころ、インド北部のヒマラヤ山麓に在った釈迦国(釈尊は同国の王子であった)滅亡のとき、同国の王族がチベットに逃れた可能性は充分にあり、羌族にその血筋が流れ込んだとしても不自然ではありません。また、羌族は中原にもたびたび侵攻しておりますので、西周王の子孫の血筋が入る可能性も充分にあったと思います。

 

辛嶋氏によると、日本の「神道」を作ったのが、このオオヒルメなのだそうです。

どうやって作ったかというと、景教(イエスの十二使徒の一人、聖トマスによって東方へ伝播したキリスト教)、仏教、それと老子の道教、この三つの教えを、日本の縄文以来の祭祀宗教に組み込んで作ったとのことです。オオヒルメは、秦氏の中でも、極めて宗教性の高い覚者級の人物だったのかもしれません。

 

 

【聖徳太子と景教】

日本へ渡来したユダヤ人は秦氏だけではないようです。久保有政氏、飛鳥昭雄氏、ケン・ジョセフ氏、マーヴィン・トケイヤ―氏などの説によれば、物部氏もユダヤ教を奉じるユダヤ系一族であったとのこと。東北大学の田中英道教授も、そのことを否定されておりません。

 

物部氏が創建した長野県の諏訪大社は、守屋山の麓に位置し、古来より「御頭祭(おんとうさい)」という祭りが行われてまいりました。これは、アブラハムが、神から息子のイサクを生贄として捧げよと直々に命じられたため、モリヤ山に登り、イサクを燔祭に供しようとしたが、アブラハムがイサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天から神のみ使いが現れてその行為を止めさせたと云う故事に則った祭事と云われています。

 

これは、諏訪の神と呼ばれる“ミサクチ神”の祭祀とされていますが、ミサクチ神とは「ミ(御)・イサク・チ(接続語)」であり、この「御頭祭」はイサク神を祀っているお祭りであるとされています。縄文時代に栄えていた諏訪は、渡来したユダヤ教を奉じる古代ユダヤ人と縄文人が共生していた地といわれていますが、まさに日本の中でも古代ユダヤの伝承が色濃く残っております。

 

しかし、応神天皇のときに渡来した秦氏は、同じユダヤ人であっても、すでに景教(東方キリスト教)に改宗した一族でした。彼らは、製鉄・製紙・養蚕・機織・土木・医療などの優れた技術を有する一大技能集団であり、当時の大和政権に多大な影響を与えたものと思われます。

 

聖徳太子は、第二十九代用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれ、厩戸皇子(うまやどのおおじ)と称されていました。

 

当時の皇室は、外戚の蘇我氏が権勢をふるっていましたが、太子は秦氏の長・秦河勝(はたのかわかつ)をブレインとして重用し、秦氏の信仰する景教への理解も深かったようです。厩戸皇子という名は、イエスキリストを連想させることからして、太子自らが景教の信仰者であったのかもしれません。

 

 

 

【秦氏の景教と神道】

先にも述べましたように、秦氏は、当時の先端技術を持つ技能集団でありました。しかし一方で、彼らの中には、並外れた精神性と天才的な宗教観を持つ、覚者のような人物が存在していたのかもしれません。神道の卓越性に気づき、景教の奥義に通じ、そして釈尊や老子の教えの真髄を理解する者がいたのではないでしょうか。

 

秦氏は、日本国内に八幡神社と稲荷神社を数多く創建しました。八幡神社(八幡さま)は全国に44,000社、稲荷神社は32,000社を数え、日本最多の神社です。

 

一説によると、八幡は、もともと「ヤハタ」と読まれていましたが、「秦氏の氏神」を意味するとも、またイエスキリストの使用していたアラム語でユダヤのことを「イエフダー」と言い、それが転じて「ヤハタ」になったとも云われています。さらに、「ヤー・エハッド」(唯一の神)が転化したとか、「ヤハウェ」(唯一の神)が転じて八幡になったと主張する方もおります。その説によれば、八幡神社は、全知全能の唯一神を祭っていると言うことになります。

 

一方、「稲荷」は、イエスキリストが磔刑にされた際に、十字架上に掲げられた罪状書きの文、Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の略称INRIから転化したとも言われ、稲荷神社はイエスキリストを祭っているのではないかとも言われています。

 

澤田氏によりますと、イナリというのは、今は「稲荷」と書きますが、もともとは「伊柰利」と書いたそうです。『山城国風土記』逸文にもそう記されており、最初は「柰」という字が使われていたことが分かるとのこと。実際に、今でも「伊柰利」と書かれた神社が、埼玉県の妻沼や熊谷などに存在しています。ということは、「伊柰利神社」は、イエスキリストを祭っていると云うことになります(その理由については、次回ブログにて)。

 

アメリカに、ハエリというスーフィ(イスラム神秘主義)の大家がいますが、そのハエリ師がアラブ首長国連邦のスーフィの大家を伴って、日本でスーフィのゼミナールを開きたいというので来日されました。その時、澤田氏が稲荷のことについて話したら、「それは大変だ。イナリというのは『光を与えるもの』という意味で、イスラーム世界では非常に重視されている」と言われたそうです。

 

それ以降、澤田氏は「稲荷」を徹底的に研究されました。「稲荷」と云えば低俗な民間信仰と思われがちですが、どうしてどうして、稲荷には実に驚くべき意味があると語られています。

 

 

【古事記と神道霊学】

「唯一神道」の六代目継承者・荷田春満(かだはるみつ 京都伏見稲荷大社の宮司)は、古事記を復活させた江戸時代の国学者です。平安時代以来、日本書紀が重んじられ、古事記は忘れ去られた存在でした。これを荷田春満が復活させ、国学として復興させました。そして賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正と、国学の系譜は流れて行くわけです。

 

しかし荷田春満は、もっと重大なものを受け継いでおりました。これが荷田訓之(かだのりゆき)に伝わって、裏の神道の流れを形成して行きます。幕末から続々と興った新しい宗教はみな、何らかの形でこれに関連があるようです。荷田訓之の線から、「稲荷古伝」などの神道霊学の流れが生まれてまいりまして、言霊(ことだま)学の中村孝道(なかむらたかみち)や、大石凝真素美、そして出口王仁三郎の祖母・上田宇能なども、この線上に出てまいります。

 

神道の祝詞(のりと)のなかでも、一番重要なものとして挙げられるのが「大祓詞(おおはらえのことば)」ですが、その中に「天津金木(あまつかなぎ)」という言葉が出てまいりますが、そもそもなんであるのか、今日では分からないという事になっております。

 

しかし「唯一神道」によると、古事記には「天地初めのとき、高天原になりませる神のみ名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と書いてあります。すると天津金木を一本立てる。これが高天原に天之御中主神がなりました、ということを表します。「次になりませる神のみ名は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」と言いますと、さらにもう一本の天津金木を横向きに置く。「次になりませる神のみ名は、神御産巣日神(かみむすびのかみ)」と言うと、今横向きに置いた一本と直角にもう一本横たえて置くわけです。

 

このように、神々の名前に従って天津金木を操作してゆきます。要するに、古事記は天津金木を運用するための「秘伝書」ということができるわけです。その目的は、宇宙の成り立ちや顕幽の有様を知り、未来を予測するためのものであると言われています。もちろんそれだけでなく、「真澄の鏡」と云われる言霊(ことだま)七十五声の成り立ちと働きを説明する書でもあり、さらには、易経を調べればすぐ分かるように、六十四柱の神々の名を使って、太極から陽と陰に分かれて、さまざまな事象が生じる過程が書かれているのです。

 

 

【神道と一神教】

澤田氏によると、米国のロサンゼルスに、アフマッド・アブドラー・ムハマド・ケミーというイスラームの指導者がいて、本当に不思議なのですが、古代エジプトの伝承を、何千年も前から今日に至るまで脈々と伝えていて、それに基づいていろいろな本を出しているそうです。

 

日本の神道が多神教か一神教かという問題と、ある意味で非常に似ているのですが、古代エジプトと言えば、当然多神教と皆が思っています。ところがケミーは、エジプトは完全な一神教であって、天地創造の神を礼拝していた。その天地創造の神は、太陽のように光り輝く存在であるから「ラー(太陽)」と呼んだり、空中を自由自在に駆け巡るから「鷹」と表現したり、ものすごく強いから「牛」と呼んだりしたが、それらは要するに、唯一創造の神のいろいろな働きを表現したものであるということを、実に詳しく納得できるような形で説明しているそうです。これは、丹後一宮・元伊勢籠神社(このじんじゃ)の海部(あまべ)宮司が主張される多次元同時存在論にも通じるものがあるのではないでしょうか。

 

 

【聖徳太子の神観】

縄文文明は、発見された土器の作成された年代調査から、16,500年前までに遡ることが可能であります。既に定住社会が存在していて、然も、芸術性の高い縄文土器や土偶からして、統一された美意識や精神性が見られ、かなり文化度の高い文明が栄えていたようです。しかも、これはチグリス・ユーフラテス文明やエジプト文明より遥かに先行してのことであり、まだ他の地域が石器時代のころのことです。

 

竪穴住宅に住む家族を単位として、一族の住む邑(むら)ができあがり、それらが結びついた領域国家的な存在があったようです。特に、関東から北海道にかけて縄文文化の遺跡が集中していることから、東国が文化の中心であったようです。江戸時代までは、「神宮」と呼ばれる神社は伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三つで、内二つが関東に在ることになり、どうやら関東が縄文文化の中心であったようです。

 

ここは、古代には大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)と呼ばれ、縄文文化が色濃く残っている地域で、太陽信仰を中心とする祭祀国があったようです。現に、鹿島神宮の付近には高天原と呼ばれている地域もあることから、天孫降臨神話の原点であるのかもしれません。東国には「秀真伝(ほつまつたえ)」や「富士古文書」などの不思議な古史古伝もあり、日本の秘められた歴史が隠れされているようです。

 

この縄文文明の信仰が、神道の源流なのではないでしょうか。神のことを、人間が常に感じ思考している通常の意識(第一意識)で、すなわち理屈や理論で理解するのではなく、人間の内にある神性(第二意識)に重きを置き、その神性がそのまま「神」を直感する道、換言すれば「言挙げせずの道」、即ち「惟神(かんながら)の道」であるという信仰があったのかもしれません。そして、これこそが、江戸時代の神道家である黒住宗忠へと通じる霊脈なのかもしれません。

 

聖徳太子が唯一神道「みすまる秘伝」の最初の継承者とのことですが、聖徳太子といえば必ず秦氏が登場してまいります。その秦氏は景教であったと言いますから、景教と「みすまる秘伝」とは密接な関係がある、あるいは表裏一体をなすということは容易に想像されます。この景教が原始の神道と結びつき融合したものが「唯一神道」すなわち「みすまる秘伝」なのではないでしょうか。さらには、秦氏の一族である辛嶋氏の祖オオヒルメは、原始の神道を中心に、景教や仏教、そして老子の教え(道教)を包含統一して作られたのが「神道」だと語っています。

 

日本書紀では、聖徳太子は十七条憲法に「三宝」を敬えと言われたと伝わっています。三宝とは仏法僧であるとされていますが、「先代旧事本紀・神代皇代大成経」では、「三法」即ち仏儒神を敬えとあり、むしろこの方が真実であるような気がいたします。それによると、根本は神道(景教や老子の教えと融合)であり、そして、神道から生じた枝葉が儒教であり、その果実が仏教であるとしております。

 

神道は、人間の内部の神性(第二意識)が、そのままで神を認識する道、即ち「言挙げせぬ惟神(かんながら)の道」であります。しかし仏教は、人間の理屈や理性(第一意識)から神(第二意識)を認識しようとしており、そのために言葉が多く、複雑で難解であります。

 

聖徳太子は、中国魏の時代の高僧「南岳慧思」の生まれ変わりという伝承もあり、厩戸皇子と呼ばれたようにキリストとの霊的繋がりをも匂わせています。十名の人が同時に訴え語るのを一瞬で理解するなど、超能力にも秀で、あたかも覚者のようであったと伝わっています。むしろ覚者そのものであったのかもしれません。真理を直覚されていたからこそ、仏教の大乗経典を読まれても、即座に理解できたのではないでしょうか。

 

先の澤田氏によると、コーランには、全ての民族や国に神の御使いや預言者を通じて、時代時代に、新たに神の教えが下されており、それら全てをイスラームと呼ぶとのことです。聖徳太子は、マホメットとほぼ同じ時代に活躍されましたが、太子自身にも神からの働きかけがあったのではないでしょうか。

 

わが国の法然・親鸞・一遍・日蓮らは、独自の教えを切り開かれた大覚者ですが、仏教とは異なる立場で、全く新しい教えを立てることも可能であったはずですが、釈尊への敬慕から、敢えて仏教の流れの中で、新たな教えを立教されたのです。

 

全ての大乗経典は、釈迦入滅後、かなりの年代を経て作られたものです。したがって釈尊直々の教えではないと言われています。だからといって、無価値なものとは言えません。後世の霊覚者が、その直覚した真理を、独自の教えとして説くことをせず、釈尊を敬慕するあまり、仏教の名を借りて書き記したものではないのでしょうか。澤田氏の言葉を借りれば、それらもイスラームという事になって参ります。

 

「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」は、聖徳太子によって記された仏教経典の趣意を解説した本で、「法華義疏」「維摩(ゆいま)義疏」「勝鬘(しょうまん)義疏」の三部で構成されています。

 

特に、「法華義疏」は、有名な法華経の解説書です。「法華経」は西暦50年~150年ごろにインドで記された経典ですが、それは、ちょうどキリストの使徒トマスがインドに伝道に入った頃に一致しております。同経は、三つの新しい思想からなり、それらは「一乗妙法」と呼ばれる万人成仏の思想、「久遠実成の仏」と呼ばれる永遠の救い主の思想、また「菩薩行道」と呼ばれる実践論です。これはトマスの説いた教えと重なっており、もしかしたらトマスの影響を受けた霊覚者が、真理を仏教的な側面から記したものであるのかもしれません。

 

余談ではありますが、この法華経は、最澄によって開かれた天台宗の根本経典となりました。その天台宗の根本道場たる比叡山は、法然・親鸞・日蓮・道元などによる鎌倉新仏教の揺籃(ようらん)の地となり、また、「山川草木悉皆成仏」という考え方、即ち、存在する全てのものに仏性(神性)が宿るという日本独自の思想を生みだしました。まさに、これこそ神道そのものであると言っても過言ではありません。

 

また「維摩経」は、商人で富裕な在家信者の維摩が、出家せずとも立派に成道できることを記した経典です。一方「勝鬘経」は、国王夫人の勝鬘が、自ら大乗仏教の教えを説き、釈尊がそれを正しいものと認めるという内容になっています。

 

このように聖徳太子は、万人が仏性(神性)を有し、僧として出家しなくても、在家のままで成道できる道を説いた経典の趣意を解説したのです。

 

この「三経義疏」は、中国の僧の間でも非常に評価が高く、また太子自身が、魏の高僧「南岳慧思」の生まれ変わりとの伝説と相俟(あいま)って、聖徳太子への敬慕の想いが、当時の中国僧の間で大変な高まりをみせていました。唐招提寺で有名な鑑真和上は、日本への渡航を何回も試みましたが、様々な理由で挫折。過労と無理によって失明しながらも五回目にやっと日本へ辿り着くことができました。その目的は、仏教の戒律の普及もさることながら、聖徳太子の真の教えに触れたいとの想いからであったと云われています。

 

太子の思想の根底には常に神道があり、「惟神(かんながら)の道」を最上と思っておられたのかもしれません。しかし一方で、肉体人間の意識や理性の側より、すなわち和田聖公師が言われるように「第一意識」の側から、真理(神)を説明しようとする仏教に対する理解も尋常ではなかったように思えます。

 

聖徳太子というと、十七条憲法や冠位十二階の制定し、その政治的手腕で有名ですが、その精神性の高さから、聖徳太子は没後に空海として再生されたとの伝承もあり、太子は空海と共に、後代の浄土系の僧から特別に慕われることになりました。

 

親鸞(しんらん)聖人は叡山での修行に行き詰まり、絶望のあまり救世観音の化身、そして極楽浄土への救い主と信じられていた聖徳太子に救いを求め、河内国の磯長(しなが)の太子廟へ参籠し、三日三晩祈り続けましたが、二日目の夜、太子が出現され教え導かれたと伝わっています。また、救世観音を祀る京都の六角堂に百日間の参籠につとめ、救いを祈り続けましたが、九十五日目の払暁(ふつぎょう)、聖徳太子のお告げを得て、法然の門へ転じられることになりました。

 

この親鸞は、「世尊布施論」(現在、西本願寺に秘蔵と伝わる)をよく読まれていたそうですが、これは景教聖典の一つで、マタイ伝の「山上の垂訓」そのままの漢文訳であったとのことです。親鸞の師「法然」は秦氏の出自でありますので、景教の霊脈の影響があっても当然のことと思われます。

 

法然の孫弟子にあたるのが一遍(いっぺん)ですが、神道との縁が深く、三十七歳の時、宇佐八幡宮に参籠し、霊夢を感じて回国結願(かいこくけちがん)を起こし、南無阿弥陀仏の名号の算(ふだ)を配り諸国を遊行(ゆぎょう)することとなりました。それから一年後、熊野本宮へ百日参籠につとめましたが、その満願の日、目の当たりに熊野権現にまみえ、(阿弥陀仏の)本願の深意、他力の奥旨を悟ったのです。再び、名号の算(ふだ)を配る旅を九州から始められましたが、大隅國正八幡宮(現鹿児島神宮)に参籠すると神が示現され、神歌を賜りました。また、聖徳太子を大変敬愛されていましたので、後年、河内国磯長(しなが)の太子廟に三十七日のあいだ参籠されています。

 

一遍の言葉、『……このように(念仏を)打ちあげ打ちあげ唱なふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の(とかくの)道理もなし。善悪の境界、みな浄土なり。外に(ほかに)求むべからず、厭う(いとう)べからず。よろず生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪(なみ)の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の願に預に(あずかるに)あらず』は、もはや神道そのものであります。

 

このように、わが国においては景教も神道に同化され、仏教も単純化され神道化しております。このような、独特な日本の霊性の原点は、聖徳太子に、そして遥か昔から伝わる縄文精神にあると云ってもよいのではないでしょうか。

 

 

【近代神道家の神観】

川面凡児(かわづらぼんじ)は、文久二年(1859)、豊前の宇佐に生まれました。生家は酒造業や呉服業を営む裕福な大百姓でありましたが、縁あって六歳の時、親戚の大庄屋の溝口家に養子として迎えられました。養父は、古神道の造詣深い神職で、宇佐八幡宮に参拝する神道家や尊王家が絶え間なく出入りする独特な環境に育ったのです。

 

凡児は、宇佐八幡宮の裏手にある馬城峯(まきのみね 別名御許山)で修行中に、数々の神秘的体験を重ねられました。詳しくは、SHIMA占星学研究室のブログ「雑記帳」の「川面凡児と神道」をご参照ください。

 

以降、漢学塾の師匠を経て二十四歳で上京。東京では、仏教やキリスト教、西洋哲学を研究する傍ら、世界宗教としての神道体系を確立しようと努力されていました。この間に、仏教雑誌に寄稿したり、地方新聞の主筆として健筆をふるったりして生活費を稼がれていたのです。

 

川面の宇宙観を要約すれば、宇宙の一切は、大直霊としての天御中主(あめのみなかぬし)の顕れであり、すなわち根本エネルギーの分出と回帰の旋回運動としての稜威(ミイヅ)であるとしています。その意味で万物は顕幽一体であり、人は無自覚であっても本質的に神人不二なる存在であります。万国の国民は、与えられた天地顕幽の限りない恵みを忘れず、感謝と畏敬の祈りを捧げつつ、神人不二の境地を開発し、世界と宇宙の無限の生成発展に参画して行くことを責務としていると主張されています。

 

宇宙の根本神は、いかなる名称で呼ばれても、その実は一つであって、その根本神の名によって人類万有を救済、摂理ましますのです。「宇宙の大道」は、排他的な信仰であってはならず、信仰を異にする人でも、歩むことのできる広い道でなければなりません。そうでなければ、人類全体を統一霊化することはとてもできないだろうと考えられました。

 

さらに、古代のスメラミコトは、国にふりかかる災厄を予知し、未然に防止する偉大な祭祀王であったと主張されています。スメラミコトは禊と魂鎮め(たましずめ)の行を積み、その霊覚を開発していたように、国民一人ひとりも宇宙の直霊(なおひ)を受け継いだアラヒトガミであって、天皇に倣(なら)い、魂鎮めの行を通じてその神性を輝かせ、「大神人」となって世界に平和をもたらす使命を持っているのであると説かれています。

 

川面凡児の思想は、後進の神道家に多大な影響を与えました。出口王仁三郎聖師もそのひとりであります。彼は、著述の中で次のように語っています。

 

『半可通的論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云つて居(お)るが、斯(か)かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである、独一真神にして天之御中主大神と称へ奉(たてまつ)り、其(その)他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百萬の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも吾神道は一神教であるのだ。』

(出口王仁三郎全集第5巻 瑞言祥語 五より)

 

『祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりで沢山の神様に礼拝する、それはあたかも人々に挨拶すると同様の意味に於てである。誠の神様はただ一柱しかおはしまさぬ、他は皆エンゼルである。』

(水鏡より)

 

『無限絶対無始無終に坐(ま)しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は、只一柱在す(います)而已(のみ)。之を真の神または宇宙の主神(すしん)といふ。汝等、この大神を真の父となし母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。』

(霊界物語より)

 

『而(しか)して真に敬愛し尊敬し依信(えしん)すべき根本の大神は、幽の幽に坐します一柱の大神而已(のみ)。その他の八百万の神々は、主神の命に依(よ)りて各(おのおの)その神務を分掌(ぶんしょう)し給ふものぞ。』

(霊界物語より)

 

 

最後に、出口王仁三郎聖師の天津祝詞(あまつのりと)をご紹介したいと思います。

 

高天原(たかあまはら)に元津御祖皇大神(もとつみおや・すめ・おほかみ)

数多(あまた)の天使(かみがみ)を集(つど)へて永遠(とことは)に神(かみ)留(つま)ります

神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の御言(みこと)以(も)ちて

神伊邪那岐尊(かむ・いざなぎのみこと)

九天(つくし)の日向(ひむか)の立花(たちばな)の小戸(をど)の阿波岐ケ原(あはぎがはら)に

禊(みそぎ)祓ひ玉(たま)ふ時になり坐(ま)せる祓戸(はらひど)の大神(おほかみ)たち

諸々(もろもろ)の曲事(まがこと)罪(つみ)穢(けがれ)を

祓ひ玉へ清め賜(たま)へと申(まを)す事の由(よし)を

天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)、八百万(やほよろづ)の神たちともに

天(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳(みみ)振立(ふりたて)て聞食(きこしめ)せと

恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す

東北大学名誉教授の田中英道先生(日本国史学界)の出演されているインターネット番組林原チャンネル「古墳時代日本に渡来したユダヤ人」と、久保有政(池袋キリスト教会牧師、景教研究家)の出演されているインターネット番組"JJ.Jesus and Japan Channel"「聖徳太子と古代東方キリスト教」へのリンクを貼り付けてあります。ご参考までに。