富山県高岡市 善興寺蔵
棟方志功作
「二河白道図」
私は久しく、念仏一念で人生を送った名もない人々や、無一物で諸国を遊行する念仏聖(ひじり)に対して、密かに憧れの念を抱いて参りました。その純心さ、そして安心しきった心根を知るにつれて、自分もそのような心境になりたいと思ったものです。
そして、大衆をして、そのような心境に導いた浄土門の覚者方について、もっと知りたくなったのです。
鎌倉時代の仏教界は、数多くの霊的傑物を生み出してまいりました。特に浄土門には、多くの霊覚者が誕生しております。
法然、親鸞、一遍は、その代表格と言ってもよいと思います。
昭和の大聖ともいうべき五井昌久師のご著書を中心に引用させて頂きながら、それらの大聖たちの一端をご紹介させていただきたいと思います。
【法然 深いものの単純化】
浄土門の大聖、法然親鸞の偉さは、深い学問知識をもちながら、その学問知識をさらりとすてきって、念仏一念になりきったところにあります。学問知識が深いと、どうしてもその学問知識がかえって邪魔になりまして、表面、非常に単純そうに見える念仏行一筋というような生き方はできにくいものなのです。ところが法然や親鸞はその単純化をなし得たのです。
法然は深い宗教学の果てに、いったい何を発見したのでありましょう。
それはいかに深い学問知識を得たとしても、肉体人間の自己を真の自己とみていての知識では、それはみ仏の智慧に到底いたらない。それは業生(ごうしょう)の世界の知恵知識であって、真実人間を救うわけにはいかない。真実人間を救い、真理を体得できるのは、肉体人間が自己であり、眼に見え、手に触れるこの五感の世界が、真実の人間の世界である、という誤った想念から解脱することによってなされるのである。ということを法然は知ったのであります。
しかしここまでなら、法然以前の霊覚者にも判っていたわけですが、法然が傑出していることは、ただ単に六字の唱名法によって、肉体世界を解脱できる、ということにあるのです。いわゆる誰にもやさしく、何気なくできる悟りへの道であるわけです。
在家そのままで、無学のままで、老若男女のだれにでもできる解脱の方法。ここに到達した法然自らは、深い学問知識を積み重ねた碩学であったのです。法然自体は、既に解脱を得ていたのですが、衆生のために尽くせる道を発見することが、法然にとっては必要だったのです。法然には、法然以前の道に、衆生を救う道を見出すことはできなかったのです。
そこに、唐の善導の著した『観無量寿経疏』という書の霊的な導きがあり、今日までに心の中にあった浄土三部経の唱名の方法が、はっきり浮かび上がってきたのです。法然は、ここで他の方法をスッキリと切り捨てて、唱名念仏一点に教えをしぼり、易行道としてその教えを単純化したのです。
宗教ばかりではなく、政治の世界でも、科学の世界でも、芸術の世界でも、深い内容を単純に現す方法が必要なのです。深い内容の単純化こそ、大衆を進化させる大事な方法であるのです。法然こそ、日本宗教界の大恩人であり、世界の宗教界に特筆大書できる聖者なのです。
※「非常識 常識 超常識」五井昌久著 白光真宏会出版局刊より引用
【親鸞 万人が救われる】
『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』
これは歎異抄によって、親鸞聖人の言葉として多くの人々に知られております。
親鸞は、悟りとか救いとかいうものは、業想念の波を相手にして、いいの悪いのといっていたのでは、いつまでたっても、成就するものではない。この業想念というものを、一切相手にしないことによって、はじめて悟りとか救われの道とかに入りえるのだ、ということが判っていたのです。
※ 和田聖公師の、『第一意識を第二意識に譲り渡せ』と同じ意味だと思います。このことは、「臍帯呼吸法」とともに、後日書いてみたいと思っています。
業想念を相手にしなければ、相手にするものは、神仏よりなくなってきます。神仏だけを相手にしていれば、自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。
そこで、幸に法然上人という偉大なる師が現れて、自分より先に、そうした原理をといて、念仏一念の生活に大衆を導き入れているのを知り、すっかり感動して、弟子入りして、法然の教えを一歩進め、自己を一般大衆と同じ立場におとして、体験としての易行道の教えをひらいたのであります。
人間の本心の世界、み仏の世界というものは、人間がちょっとやそっとの善いことをした、というような、そんな善の世界ではなく、自も他も全くない光一源の世界であり、大調和そのものの世界であって、この世における自他の差別のない、それでいて天命のままに各自が動き得る、天命がそのまま個性となっている、そうした世界であります。
いいかえれば、自己の光明は自己の光明とはっきり判っていながら、その光がお互いの光の為に有益な働きかけをし合っていて、なんらの邪魔にもならないという、すべてが調和した神霊の世界が、私たちの本心の世界なのであります。そうした姿が、この世に現われた時、それが地上天国と呼ばれる世界となるのです。
ちょっとばかりの善事を鼻にかけたり、私は今日まで何一つ悪いことをしない、などといっているような境涯では、とてもそうした地上天国の一員とはなれません。私は今まで悪いことをしているから、悪い境涯が現れてもあたりまえだ、と自分自身で、自分の悪い行為を認めている人は、その悪い境涯を消してもらう為にも、真剣に神仏にすがる想いが出てくるのですが、自分は善人だという思い上がりのある人は、自分自身の行為を高くみていますから、真剣に神仏に救いを求める祈りは致しません。そこで善人顔をしている人は本心が開発しにくい、真の救われの道に入りにくいということになるのです。
それを親鸞は、そういうような思いあがった人でさえも念仏を唱えていれば往生をとげられるのだから、自分を悪人だと思いこんでいて、この悪人をお助け下さいという気持ちで真剣に念仏を唱えているものを、阿弥陀仏が救わぬわけがない、ということを『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』のような言葉でいわれたのです。
※ 「生きている念仏」五井昌久著 白光真宏会出版局刊より引用
【一遍 熊野権現(ごんげん)夢想の口伝】
浄土門には偉い人がかなり出ていますが、ここに、忘れてはならない人を一人あげますと、それは、法然の孫弟子ぐらいにあたる一遍智真でありましょう。明朗豪快な、自力の行者型にみえる人柄でいて、他力念仏行に徹した人であり、深く心に残る人であります。
一遍智真は、延応元年(1239年)伊予松山に生まれました。生家は、瀬戸内で活躍した水軍の河野家であり、父は通広(みちひろ)、祖父は通信(みちのぶ)といいました。河野家は、源頼朝による平家追討に際し、義経に軍船を献上して源氏方に加わりました。壇ノ浦の戦いにも参加し、通信の軍船が中堅となって活躍したため、その功が認められて、戦後は鎌倉幕府の御家人となり、伊予国の武士団を統括することになりました。しかし、後鳥羽上皇が執権北条家に反旗を翻した「承久の乱」で、上皇方に与した(くみした)ため一家は没落。祖父の通信は断罪され陸前に配流され、父も如仏と称し、伊予宝厳寺の一隅でひっそりと暮らすこととなりました。
一遍智真は、母が十歳のとき亡くなったのが縁で出家し、九州へと渡り、大宰府にほど近い原山で、聖達にめぐり会いました。聖達は法然の高弟であった証空の門弟であり、二十五歳に至るまで、青年期を聖達のもとで学びました。やがて、父が世を去るとの訃報がもたらされたため伊予へ帰国しました。数年間、武士として妻を娶り、在俗の生活をしつつ仏に仕えていました。
ところが、智真を殺してまで、所領を横領しようとした縁者の態度に見切りをつけて、再出発を志して、文永八年(1271)信濃国(現長野県)の善光寺に参籠しました。帰国後、窪寺の草庵に「二河白道の図」(注1)を掲げ本尊とし、全てを投げ捨てて、専修念仏の生活に入りました。そして草庵に籠ること三年、ついに、十一不二の偈(注2)を感得したのです(イニシエーションを得たのです)。
(注1)唐の善導が、浄土教の信心を喩えたとされる。主に掛け軸に絵を描いて説法を行った。
絵では上段に阿弥陀仏と観世音菩薩・勢至菩薩のニ菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれている。 白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれている。下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれている。 下段の岸は現世、上段の岸は浄土のこと。 右の河は貪りや執着の心(欲に流されると表すことから水の河)を表し、左の河は怒りや憎しみ(憎しみは燃え上がると表すことから火の河)をそれぞれ表す。
盗賊や獣の群れも同じく欲を表す。 東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人物は白い道をとおり西岸に辿りつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすというもの。
(注2)法蔵菩薩は、十劫という途方もない昔に、すべての衆生を救う悲願を達成して阿弥陀仏になられた。したがって、すべての衆生は本来救われているのである。しかし、衆生は迷っていて、そのことを自覚していない。そこで、改めて一念の念仏で救われを確認して弥陀国の民になることが出来る。すべての衆生は、実は阿弥陀仏と一体なのであり、その本体は仏である。
やがて智真は、文永十一年(1274)二月、超一・超二・念仏房の三人を伴って遊行の旅に出ました。超一は智真の妻、超二は娘、念仏房は下女です。智真の一行は、摂津国(現兵庫県南東部と大阪府北中部)の四天王寺から高野山を経て、熊野本宮を目指しました。「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書かれた念仏札を賦り(くばり)ながら。
「熊野の本地は弥陀なり。和光同塵(仏菩薩が威徳の光を和らげて衆生に近づき、種々の身を示現して化益すること)して念仏をすすめ給はん為に神と現じたもうなり。故に証誠殿(しょうじょうでん)と名けたり。是(これ)念仏を証誠したもうなり……」
このように熊野本宮は阿弥陀如来が熊野権現として示現されている聖地でありました。
この地で、智真は証誠殿に参籠いたしました。
すると、智真の眼前に熊野権現が出現され、『融通念仏をすすむる聖(ひじり)、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ、御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定(けつじょう)するところなり。信・不信をえらばず、浄・不浄をきらはず、その札をくばるべし』と教示されました。
さらに、『心品(しんぼん)のさばくり有るべからず。この心は、よき時もあしき時も、迷いなる故に、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生するなり』(内なる仏=南無阿弥陀仏が往生するのである。迷っている心、即ち、我々が常に意識している想念は全て煩悩であるから、往生の要因にはならない。自力で心を煩わせても往生には何の役にもたたない)と教示されるのでした。
このときをもって智真は大悟し(イニシエーションを得て)、「我この時より自力の意楽をば捨て果てたり」と語るとともに、「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べるのでした。
さらに、「念々の念仏は、念仏が念仏を申すなり。我よく念仏して往生せんと思ふは、自力我執が失せざるなり」(念仏とは、内なる仏が外にまします仏に称えている。内なる仏が、阿弥陀仏=外なる仏の計らいで極楽浄土に往生する。全ては他力であり、自力我執のなせる技ではない)と説いています。
「往生は心品によらず、名号によりて往生するなり」(いつも迷っている心、即ち我々の想いは往生の原因にはならない。南無阿弥陀仏という唱名念仏が往生するのだ)とも言われております。
熊野権現より夢に授け給いし神詠
「まじへ行く道(念仏以外の雑業のこと)にないりそくるしきに本の誓いのあとをたづねて」
一遍智真は、熊野下山後、京をめぐり、西海道を経て九州に渡り、九州を一巡して四国に赴きました。このとき、豊後で最初の随従の弟子真教が入信しています。また大隅八幡宮(現鹿児島神宮)に参籠中に神から神詠を直授されたのでした
「十(と)こと葉(は)に南無阿みだ仏ととなふればなもあみだ仏に生まれこそすれ」
伊予から備後に入ると、280余人が一遍について出家しました。こうして出家するものが多くなるにつれ、時衆が形成されました。時衆とは、一遍を聖(ひじり)と仰ぐ宗教集団であり、聖にしたがい、苦しい遊行の旅を続ける「道時衆」と、在俗の生活を続けながら、帰依者として念仏を実践する「俗時衆」があります。
備後を後にした一行は、弘安二年(1279)の春、京にのぼり、秋のころ信濃の善光寺に詣でたのち、佐久郡伴野に留まりました。この伴野は、承久の乱に際し、朝廷方に与した一遍の叔父・河野通末(みちすえ)の配流された地でありました。ここで一行は念仏を修しましたが、歓喜のあまり踊りだす者が多数でて、これが「踊り念仏」の先例となりました。
信濃国を遊行したのち、白河の関を経て奥州へと赴き、陸前(現岩手県)江刺郡にある祖父・河野通信(みちのぶ)の墳墓をたずね、念仏を修しました。その後、南下して鎌倉に至り、鎌倉山内で執権北条時宗一行と相まみえましたが、入府を阻まれた(はばまれた)ため、鎌倉を迂回して相模国片瀬江の島に出て、この浜で念仏を修しました。貴賤を問わず大群衆がつめかけ、踊念仏に参加したのです。
霊眼の開かれた者たちは、一遍の行く先々で不思議な現象を目の当たりにしています。この片瀬の浜でも、多くの人が、紫雲たなびき、花が降ってきたと云ってまいりましたが、本源の世界だけを見つめる一遍にとって、そのような霊現象は枝葉末節であるため、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍は知らず」と応え、
「花はいろ 月はひかりとながむれば心はものを思はざりけり」
と詠むばかりでした。
やがて、東海道を経て、弘安七年(1284)閏四月入洛しました。京都では京極にあった釈迦堂に入り説法しましたが、身動きができないほど貴賤上下群れをなし、群衆が念仏札をもらおうとして殺到したため、一遍は弟子の肩車で、念仏札を賦る(くばる)始末でした。
秋になると、山陰路を遊行し、その後に美作国(現岡山県)から弘安八年(1285)摂津国に入り、四天王寺・住吉大社に詣で、河内国(大阪府東部および南西部)では、磯長(しなが)の聖徳太子の廟に三十七日のあいだ参籠しました。恐らく、聖徳太子との霊的交流が有ったのではないでしょうか。
その後、大和国の当麻寺、山城国の石清水八幡宮、播磨国の教信寺(注3)に参り、弘安十年(1287)には書写山に登って性空上人(注4)の遺跡を訪れました。
(注3)教信寺は称名念仏の創始者である教信によって開基された。教信は、興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川市にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地とした。南無阿弥陀仏の称名に明け暮れると共に、西国街道の旅人の荷物運び、農耕の手伝い、駅ヶ池の造成など行った。教信の入寂後、遺言により亡骸は野に置かれた。体は鳥獣に食われていたが、首から上は無傷の状態であった。
(注4)平安中期の僧。播磨国書写山(しよしやざん)円教寺の開山、書写上人の名で知られる。橘善根の子。10歳で《法華経》を受持して生涯変わらなかったという。28歳の年に父を失い、日向国に下ったが、36歳で比叡山に登り良源(慈覚大師)を師として剃髪受戒した。その後、九州日向の霧島山や筑前の背振山などの諸名山で修行を重ね、966年(康保3),57歳で書写山に登って円教寺を開いた。性空の名は都に伝わり、花山上皇が書写山に幸し、画師に命じて性空の画像を描かせるなどのこともあったが、性空は山居を続けた。
書写山を辞した一遍は、播磨の国中を巡礼したのち、松原八幡宮に詣で、『別願和讃』を著し、時衆へ与えたりしています。その後、山陽道を遊行した一遍は、正応元年(1288)に瀬戸内海をこえて、伊予国へ渡りました。
わが身の先の短いのを知ってか、若かりし頃、出家し法を求めたいと祈った菅生の岩屋へ詣でたり、繁多寺(はたでら)に参籠して、かつて父の如仏が法然の高弟証空のもとで学んだおり用いた「浄土三部経」を納めたりしております。
翌年、讃岐国と阿波国を遊行し、淡路島に渡りました。
この淡路国の志筑(しづき)の地に北野天神を勧請した社(やしろ)があり、かつて一遍が詣でられると、神殿より神の御声があり、神詠を授けられました。
「世にいづることもまれな月影にかかりやすらん峯のうき雲」
身体がだいぶ衰弱した一遍は、世を去る秋(とき)を悟り、尊崇する教信ゆかりの地、播磨の印南野(いなみの)に向かおうと思いましたが、兵庫から迎えがきたため、全ては弥陀の御心のままと思い、和田岬の観音堂に入りました。
正応二年(1289)八月十日、所持していた聖教の一部を書写山の僧に託し奉納し、残りの全ての書籍を、阿弥陀経を誦(ず)しながら、自ら焼き捨て、「一代の聖教皆尽(つ)きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言われました。
また、弟子に対し、『葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨て獣(けもの)にほどこすべし』と命ぜられました。
二十一日には、時衆たちに心ゆくまで踊念仏をさせたのち、身を清め、阿弥衣(あみえ)を着て服装をととのえ、結縁にやって来た西宮神社の神主に教えを説き、播磨国の豪族淡河殿の女房に念仏の札を与えたのを最後に、二十三日の朝、眠るがごとく神去りました。
時に51歳。
一遍は日蓮と同時代の人でありますので、「元寇の役」のころに道を説いていたわけですが、日蓮が国難来たるを叫んで、各処で獅子吼(ししく)していたのにくらべて、そういう現象的なことにあまり把(とら)われなく、ただひたすら念仏行の宣布にあたっていたのであります。
現われの姿の善し悪しや、移り変わりに対して、いちいち想いをわずらわす方向に、人の心を向けぬようにしていたので、元の襲来そのもの、国難そのものと云う現象面の問題より、もっとそうした現象が現れてくる、その奥の姿、そしてまたその奥の奥の姿に、人々の心を向けさせようとしていたのであります。
最後に、一遍の教えが凝縮された一文がありますので、ご紹介させていただきます。これは、世界の精神文化としても最高レベルの「名文」の一つだと思います。原文ですから、少々難解で、なじみ難く思われるかもしれませんが、繰り返し眺めていると、その発する精神波動の高貴さに心動かされることは必定と思われます。
興願僧都が一遍に、「念仏はどのような心構えで行ずるべきか」を問うた手紙に対する、一遍からの返事です。
『夫れ(それ)、念仏の行者用心(心構え)のこと、しめすべきよし承り候(うけたまわりそうろう)。南無阿弥陀仏ともうす外(ほか)、さらに用心もなく、この他にまた示すべき安心もなし。諸々の智者達の様々に立ちおかれる法要どもの侍るも(はべるも)、みな諸惑に対したる仮初(かりそめ)の要文(ようもん)なり。されば、念仏の行者は、かような事をも打ち捨てて念仏すべし。
むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきや問いければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の撰集抄に載(の)せられたり。これ誠に金言なり。
念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ弥陀超世の本願にもっともかなひ候へ。
このように打ちあげ打ちあげ唱なふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の(とかくの)道理もなし。善悪の境界、みな浄土なり。外に(ほかに)求むべからず、厭う(いとう)べからず。
よろず生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪(なみ)の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の願に預に(あずかるに)あらず
またかくのごとく愚老が申すことも心得にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申すことをも打ち捨てて、何ともかともあてがひはからずして、本願にまかせて念仏したまふべし。
念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふことなし。弥陀の本願に欠けたることもなく、あまれることもなし。このほかにさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚かな者の心に立ち返りて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏』
※「一遍上人語録 付播州法語集」大橋俊雄校注 岩波文庫刊より引用
※「非常識 常識 超常識」五井昌久著 白光真宏会出版局刊より引用