崑崙山中にて鶴仙に乗る

 

前々回のブログで、和田聖公師がDK大師に背負われてヒマラヤの奥地まで飛行した話をご紹介しましたが、今回の、崑崙山中を鶴仙で遊行された笹目秀和師の体験談も驚愕すべき内容です。科学万能の現代に、このようなことを語っても一笑に付され、言葉が多ければ多いほど狂人扱いされるのが普通であります。しかし、私は双方の話は事実であると思っております。

 

地球人類の霊性向上のために、気づかれることなく、間断なく我々に働きかけている霊的な存在や他の惑星からの存在について、そろそろ熟慮すべき時期が来ているのではないでしょうか。

 

ところで、近代の日本は、傑出した霊的巨人を数多く輩出してまいりました。大本の出口王仁三郎聖師、そして、世界教の提唱者である神道家の川面凡児先生、浄土教の念仏行者・山崎弁栄上人、合気道開祖の植芝盛平翁、社会事業家でヨーガ行者の中村天風師、「世界人類が平和でありますように」の祈りの提唱者の五井昌久先生などなど。

 

そのような人たちと肩を並べるくらいの人物だったのが、今回ご紹介する笹目秀和(恒雄)師です。笹目師は昭和32年から東京都奥多摩の大岳山山頂に在る「多摩道院」で、ご神業を行じて来られましたが、平成9年1月25日94歳でご帰神されています。

 

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https://www.itasawasyobou.com/blog/2016-10-12added/


 

1.笹目師と呂霊來神仙

 

文豪の吉川英治氏は、ご本人に「笹目さん、ぜひあなたの貴重な体験を書物に残しておきなさい。あなたの人生は一大ロマンであり、稀有な修道の記録でもある」と語ったそうです。

 

笹目秀和師は、波乱万丈の人生を『神仙の寵児(全4巻)』(霞が関書房刊)と『神仙の寵児(全8巻)』(国書刊行会刊)、そして『モンゴル神仙邂逅記』(徳間書店刊)という著作として残されています。これらは、師の人並外れた自叙伝に止まらず、二人の神仙の教えや、神界の経綸などにも触れられている貴重な書です。

 

笹目秀和師は、旧制中学を卒業したのち、中央大学法学部に入学しました。彼には、大きな理想が有り、それは東洋の平和の実現でした。神道の根源に在るシャーマニズムに着目し、大陸の、特に辺境の地のシャーマニズムを研究すれば、日本と大陸との深い繋がりを感ずることができ、同朋意識が芽生え、真の連携が築けるかもしれないと思いました。

 

22歳のとき、大正13年 (1924年)の夏、学生だった笹目さんは単身で満州旅行に出かけました。汽船で玄海を渡り、満州の大連埠頭に上陸したのです。奉天(現・瀋陽)行きの列車に乗り込み、景色でも楽しもうとくつろいでいると、黒衣の道士が、満面の笑みをたたえて近づいてまいりました。

 

そして、「私は満州と朝鮮の国境に聳える霊山、白頭山の天池に住む呂霊來(りょりんらい)神仙の命により、貴方を迎えに来たものです」と告げたのです。

「仙師は、青年の名は熊埜御堂(くまんみたけ)と云うと言われました」

「いえ、全然違います。僕の名は笹目恒雄です」

「ええ、それは現在のあなたのお名前で、前生のお名前が眉と眉の間の印堂にはっきり出ております」

 

あっけに取られましたが、その言葉に従うことにしました。

 

白頭山の麓は、馬賊や匪賊が割拠し、命が幾つあっても足りないほどの地ですが、道士と行くときは、不思議と無人の荒野を行くが如き安心感がありました。道士の先導で難路を克服し、白頭山の洞窟にたどり着いた笹目氏は、齢(よわい)二百七歳と云う童顔の呂霊來神仙から、笹目氏自身の今後の生涯と果たすべき使命などを示されるのでした。そして、三千年来の因縁と、さらに重要なことが告げられましたが、口外をはばかるものであるとのことです。

 

「あなたは、一般社会人としての道を歩むことはできない。一昨年(大正11年)、この地に満州帝国が建国されたが、それが元になって、10年後には日本が滅亡の淵に立たされる。あなたは、それを未然に防ぐために、西方に二つの国を創る努力をせねばならない。しかし、目的は達せられず、日本の業(カルマ)を背負って、常人の耐え難いような苦境に陥る。そこから転換できる鍵を、西方の崑崙山の疏勒(しょろ)神仙が12年後に授けることになる。そして、あなたの生涯は、心から人々のために尽くせども何度も踏みにじられ、裏切られ、叛かれる。60年の苦行は、神の与える研鑽の道だと考えるがよい……」

 

「人々は皆、天帝の子、兄弟である。ここから北北西の衰運をたどっている遊牧狩猟の民、同じく目覚めるべき手段を知らぬ西南西の民、これらを救済する手段を講ずるがよい」

「しかし、私はまだ学生の身分。それにそのような大事業をなすには、確固たる信念が欠けそうな気がしてなりませんが……」

「いや、現在のあなたの知らない過去3千年の因縁によって、あなたの魂が自然とそれを求めてくる。あなたは、数千年前から形而下的学問(物質的基盤の上に成り立った学問)の方向へ進もうとしながら、いかんともしがたい他動的なものにより、その進路を阻まれたはずだ。しかも、多くの求むべきものがあるにも関わらず、大陸を目指してやって来た。神の意志、天の使命が感じられたのであり、今ある我執、つまらぬ希望は捨てて、天の使命に生きたらよい。だからと言って、その使命は順調なものではない。煉獄の中をゆく苦しみが伴う。しかし、それによって鍛えられ、向上してゆくことも忘れないように。この苦難の道のりを嫌い、安易の道を選んでもよい。安楽と富みが待っている。だが、その場合は短命である。再びこの世に輪廻して、また使命を追及せねばならなくなる。煉獄の生涯60年を突破すれば、無限の栄光はあなたの頭上に輝き、神と共に同座し、神権を振るう日もやって来る。如何かな……」

「はい。よく分かりました。60年の生涯を使命に生きてみたいと思います……」

 

日は暮れかかり、やがて仙師とともに仙茶を飲みました。

西天には月が輝いています。

「見よ。7月7日の月だ。今日はあなたと会うように定められた日だ。あなたのために、月の精を食む秘法を授けよう」

仙師は、月を背景とし、笹目青年を月に向かって立たしめ、印を結び、咒(じゅ)を誦(ず)しました……

 

笹目師は、呂霊來神仙から、月の精を身に受ける『坎水印』を授かったのです。

 

それから、呂神仙に「使命を果たす」ことを誓った笹目師は、モンゴル平原へと向かいました。その過程で、王家の血筋を引く貴婦人と義母子の契りを結ぶなど、多くの数奇な出会いを経験しながら、何年もモンゴル国内や日本や北京を奔走するのでした。笹目師の最終目標はモンゴル独立運動を起こすことであります。その前段階として優秀なモンゴルの少年たちを日本に連れてきて、東京で正規の教育を受けさせることを企画し、東京駒場に「載天義塾」を、そして北京に「満蒙義塾」を開き、数多くの人材を養成しています。

 

その目的を遂行するために国内で奔走中、大本の聖師・出口王仁三郎と巡り合ったのです。窮地に陥った際に、師から多くの援助を受け、彼らを無事に早稲田大学などへ就学させることに成功させました。彼らは、その後に母国に帰り、モンゴル独立運動の中心的存在となっています。

 

昭和9年、チベットのシガツェに在るタシルンポ寺院の座主・パンチェンラマ(ダライラマに次ぐ高位の称号。阿弥陀仏の化身とされる)からホビルカン(ラマ教学博士)の称号を授与されるなど思いもかけない誉(ほまれ)もありました。

 

 

2.出口王仁三郎とご神体

 

昭和10年(1935年)12月4日。笹目秀和師は、再び大陸に向かう直前に、何ものかに導かれるように、京都の綾部(あやべ)の大本の本部に出口王仁三郎を訪ねました。そして、出口聖師と会うなり、次のような言葉を投げかけられます。

 

「ご苦労さんやなあ、笹目さん、今度のご神事はわたしの代わりに行くんやさかえ、しっかり頼みまっせ」。続いて、笹目師の活動を妨害している、「金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐」の凄まじい魔障と『霊界物語』(注1)との関連について、解説を受けたりしました。それからの次第は、『モンゴル神仙邂逅記』から引用させていただきます。

 

「あんたはん、いつ発たれますか」

わたしがまだなんの説明もしていないのに、突然そうたずねられた。モンゴルにいつ行くかという問いである。

「今夜にも発ちたいと思っています」

「今夜は日出麿(ひでまる-注3代目の女婿で聖師の補佐役)との出会いが必要だっせ。崑崙山に納まり願うご神体、夜半に勧請(かんじょう)しておきますさかえ、ゆっくり休まれて、明日の朝きておくれやす」

 

ということなので、その夜は、夕食は王仁三郎師ご夫妻とともにし、宿泊は日出麿邸ということになった。

8時すぎに、祖霊社の近くにある日出麿師の住居にお伺いすると「待ってましたがな、早うおあがりやす」と、気軽に迎えてくれた。

 

しかし、お茶などいただいたのちは、きびしい口調になり、

「西北の天地は暗雲低迷していて、ご神業の展開は容易なことではない。けれどもあなたをおいてはこの任務を遂行できる人は見当たりません。だからあえていばらの道を押し進んでもらうよりほかないですね。任務のかなめは、崑崙山中に大本のご神体を納めてくることです。主神(すしん)はあなたに絶大な期待をかけておられますから、自重してください」

 

つまり、わたしに大本のご神体を託すから、崑崙山にお鎮めしてこいということなのだ。

突然の話である。それを当然のことのように言われるのは、どうしたことだろう。わたしが今日、ここにくるのがわかっていたようではないか。

 

「白頭山の呂神仙のおっしゃることには、寸分の間違いもないでしょうね」

「あの仙師は、素尊(注-神素盞嗚尊・かむすさのおのみこと)の御代様として降臨しておられ、いっさいの俗を離れておられる方ですから、言語動作に寸毫(すんごう)の誤りもないことを断言します」

「12年前に命じられた崑崙山行きを決行するわけですが、大本のご神体のことと、使命は別ですか」

「いずれも素尊からでていることで、決して別のことではありません」

 

そのほかに細かいことをいくつかたずねた。最後に日出麿師はこういって哄笑された。

「やがて地球の裏表がひっくりかえるようなときがくると、大本神業の地場が崑崙山中に移らないともかぎらないからね」

 

その笑い声はわたしの腹の底にしみ通った。日出麿師のこの言葉が何を意味するか、おそらく百年後でなければだれにもわからないであろう。

 

翌朝は未明に起きて、鶴山に登っていった。王仁三郎師はすでに起きて、玄関に立ってわたしを待ち受けておられた。

 

「笹目さん、これが大本のご神体です。崑崙山の神仙があなたのくるのを待っておられるはずですから、その案内に従い、その指示するところに、このまま埋めてください」

そう言って渡されたものは、直径6センチ、長さ30センチくらいの孟宗竹に密封され、全体に黄色の漆が塗られていた。

「確かに使命を果たさせていただきます。なにか、尊奉すべき言葉がございますか」

「なにもない。ただ口外を慎むこと」

 

この聖師のお言葉に千金の重みを感じた。

竹の筒からは、紫色の光彩が放たれているように感じられた。  (引用終わり)

 

こうして出口聖師から「大本のご神体」という途方もないものを託された笹目氏は、その日のうちに大陸へと発ち、“齢五百歳”という疏勒(ショロ)神仙の棲む崑崙山へと向かうことになるのです。

 

そして、ご神体を預かった日から3日後の昭和10年12月8日未明、日本のその後の歩みにとって極めて重要な意味を持つ「第二次大本弾圧事件」が起きました。出口聖師や出口日出麿師をはじめ数多くの関係者が投獄され、神殿や本部施設はダイナマイトで爆破され、拷問により発狂する者も出るほどの大弾圧でした。

 

 

3.疏勒神仙との邂逅

 

大陸に入った笹目青年は、崑崙山を目指して言語に絶する厳しい旅を始めました。東蒙古から、蘭州、青海を経て進んで行くのですが、当時の中国奥地は、馬賊匪賊が横行し、民も無知蒙昧で、いつ命を失うか予想だにしない状況にありました。やっとのおもいで、崑崙山系のハラノール湖水を頂く疏勒山にまで至りました。

 

疏勒山には、霊的に地球の呼吸調整を担う、齢五百歳の疏勒神仙が御座し(おわし)、30家族に満たない疏勒族がこの神仙に奉仕しております。同行してきた通訳とともに疏勒族の長に会うと、「神仙は、天地の呼吸を調整され、俗界のことに携われば狂いが生ずると、一切人には会われません」とにべもない。

「承っております。ただ一言でよいから『東からナラン・トルムと云う者が来ました』とだけお伝え願えませぬか」

 

族長から報告がありました。

 

神仙は、長く客人をお待ちであり、すぐお連れするように」とのことでした。

「通訳の心配はいりませんか」

「心配は無用だと思います。あなたの話しやすい、何処の言葉で述べても、神仙は通訳なしで理解され、神仙の言葉も、あなたの最も理解されやすい言葉でお耳に入ってくると思います」

この点は、白頭の呂霊來神仙の場合と同じのようです。

 

族長と二人、青空のもと、馬で樹林帯を抜けると、ささやかな小川の流れがあり、苔むす岩盤に覆われた洞窟が見えました。一人の老人が洞窟の前に立ち、にこやかに迎えてくれました。洞窟内にもう一人の老人が居り会釈してくれましたが、彼ら二人は神仙に近侍する者でありました。

 

そこでしばらく待つうちに、30メートルばかり離れた仙師の洞窟に案内されたのです。洞内の奥に胡座する神仙は、一見、子供かと思えるほど小柄で、顔は童子のように生き生きとした赤ら顔でありました。

 

神仙は、笹目青年への祝宴を催してくれました。木の椀に注がれたのは、36種の草根木皮で造られ地下に100年醸された長寿の酒、神仙酒で、酒の肴は、木の芽数種の塩煮であります。飯は、胡桃を大豆の大きさに砕いたものに、ザンバを混ぜて炊き上げたもので、風味があるものでした。

 

「仙師におききしたいのですが」

「よろしい、遠慮なく云ってご覧なさい」

「地球は、球表面全体で呼吸しておるものであり、特定の白頭山とか崑崙山で呼吸するものではないと思っておりましたが……」

「人間は本来、身体全体で呼吸する胎息であった。ところが何万年かの後、身体の表面の気孔が汚染され、呼吸ができなくなり、鼻腔呼吸となり、それが呼吸と思うようになった。坎水印と離火印の法は胎息にもどす。人間の胎息は、やがて、この地上を明るく平和にし、大地そのものも自然呼吸に戻って行く」

「では、白頭山や崑崙山の地上の鼻腔的役割が必要なくなるという事でしょうか。それでは、仙師もお役ごめんとなり、失業神仙となられるのではないでしょうか……」

「はっはっはっはっ。それを願うところだ。だが、地上はますます空気汚染や自然破壊が進み、胎息は無論のこと、鼻腔呼吸まで圧迫されている。このままでは自壊作用か大爆発が起きる。地球生命の維持さえ難しくなる。これを救うのは人間の捨身的献身や活躍によって、胎息にもどるための還元法をもって指導する以外に道はない」

童顔そのものの神仙だが、ひとたび口を開くと、容易ならざる威圧を感じさえするのでした。

 

翌朝の暁暗、数十の薬草の粉末を水に溶いた仙人茶をいただきました。これ一椀で、一日の身を養うことができるとのことです。

 

「しばらく、汝の肉眼を閉じることにする」

仙師は、笹目師の瞼の上を抑え、何やら咒(じゅ)を誦(ず)しました。

「わが腰の辺りをしっかりと握りしめておれよ。これを離すと下界へ真っさかさまだ。天帝のつかわし給う鶴仙に乗る」

 

空中にフワッと身体が浮かんだ感じがしました。そのうちに寒気のために全身が引きちぎれそうな痛さから気を失ってしまいましたが、気が付いてみると身体が温まっていて、侍者が全身を摩擦してくれていたのです。ここで教えられたのが、太陽を食む秘法「離火印」でした。

 

離火印だけで五体は熱くなり、標高7,700メートルの崑崙山脈最高峰モヌマーハルの寒冷な山上で、食物もない修行に五日間耐ええたのです。東天に浮かぶ太陽に向かって離火印を結び、結印鎮魂のまま端座して一夜を明かしました。翌日も山頂に上り、旭光を浴びての離火印によって、不思議と腹はへらず、丹田は懐炉(カイロ)でもいれたかのように暖かいのです。

 

午前の鎮魂が終わると、一椀の仙人茶をいただきます。その際に、笹目師は疏勒神仙から驚くことを聞くこととなります。

 

「欧州では、とんでもない計画が進んでおり、そのため世界は混乱状態となり、その計画をすすめた者は破滅の道をすすむであろう」

「欧州のどんな人たちが、その計画に参加しているのでしょうか」

「ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンらで、汝の国の者どもの大部分が彼らに踊らされる結果となるであろう」

「仙師は、外界と一切遮断された生活をされているのに、どうしてドイツやイタリア、そしてソ連などのことがお分かりになるのですか」

「宇宙を主宰する神は、虫けらの動きまでご存知でなければ、とても宇宙の運行は司れない。主宰者のほんの一部を分担させて頂く我々も、予め(あらかじめ)の動きを知らされているし、それを見通す力もある」

 

その後、仙師は、黒白二つの円い石を示して、瞑目誦咒(めいもくじゅず)し、黒い石によって表される様相を見せてくれました。それは、惨憺たる地獄図で、酷薄残忍極まりない無慈悲の世界でありました。一方、白い石に表される様相は、馥郁たる(ふくいくたる)芳香が天地に満ち、自然が美しく輝く天国図で、天人天女が自在に活躍する自由な世界であります。仙師によると、やがて地獄の様相は消え去り、天界に見える相がこの世で行われることとなるとのことでした。

 

やがて、修行の場は、ムツァータンゴ山に移ることとなりましたが、移動は鶴仙です。直線距離にして400キロはあると思われるのに、あっという間に到着してしまいました。日が暮れ、三日月に向かって、月の精気を食む坎水印の鎮魂を行いあました。

 

そして、いよいよ出口王仁三郎聖師から預かった大本の御神体に納まり頂く日となりました。疏勒神仙と笹目師、そして二人の従者は、3羽の鶴仙に乗ってココリシ山中の高原に向かいました。

 

そして、疏勒神仙は、ご神体について

「あれは御神業が終わったので、玄境にお帰り願うのだ。すなわち大和言葉(やまとことば)でいう『あわぎはら』にお鎮めするのだ。本来ならチベットのヤールツァンプなのだが、すでにかの地は穢れている。そこで崑崙山脈のココリシ山中に御鎮まり願うことになる」と語られ、御鎮めされました。

 

白頭の仙師から授けられた坎水印と、疏勒神仙から授けられた離火印を合わせて行うものを坎離印と云って、水火の精気を合わせ納める鎮魂です。笹目師は、このココリシに於いて、疏勒神仙から坎離印を授けられました。そして、坎離印を結び、咒を誦しながら、鶴仙に独座して、神仙の洞窟に帰ることを許されたのです。

 

やがて、疏勒神仙のもとを辞し、山を下ることになりました。下ればイスラームの勢力圏内です。

 

そこは、荒涼とした砂漠地帯ですが、この地は精神文化の大動脈でもありました。大乗仏教が伝播した経路であり、鳩摩羅什、不空金剛、玄奘などの数多くの僧が往き来し、華厳経、大般若経、法華経、大無量寿経などをはじめとする無数の大乗経典が運ばれた道でもあります。

 

また、シリアに本部が在った「東方キリスト教会」のキリスト教(景教)も、この道を通って中国へ伝播されました。この地の壁窟には、イエス・キリストの絵が残されていて、その手は京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩と同じ印を結んでいます。唐王朝の都「長安」で景教は大流行し、わが国の留学僧「空海」もこの教えに触れております。

 

さらに、3世紀ごろ、ササン朝ペルシャのバビロニアの地に生まれたマニよって、ミトラ教・ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教そしてグノーシス主義や仏教の影響のもとに生み出された世界宗教のマニ教も、この地を通って中国へ伝わりました。彼の地では『明教』と呼ばれ、全土に広がりましたが、ウイグルの地を支配した王国の国教にも定められています。

 

やがて8世紀を過ぎると、アラビア半島に勃興したイスラームがこの地にも広がり、大半の民がイスラームへと改宗しました。余談ですが、唐王朝のとき、中国国内にもイスラームは伝播し、各地に『清真寺』と呼ばれるイスラーム寺院が建立されました。

 

 

 

清王朝の満州熱河離宮とラマ教寺院ザシリンブ廟


 

4.試練また試練

 

このイスラーム圏内で、理由もなく牢獄にぶち込まれました。むしろ、これを機に、獄中100日、坎離印を結び、鎮魂を行じ、罪のない多くの囚人に心の安らぎと導きを与えたのです。やがて牢獄から脱出し、九死に一生を得ることができました。

 

その後、昭和12年、パンチェンラマの依嘱により、満州熱河離宮のラマ教寺院ザシリンブ廟を復興させています。

 

第二次世界大戦も終わりました。

 

一民間人であったにも拘らず、ソ連軍の不法監禁を受け、11年と4か月の間、シベリアの強制労働収容所を転々とすることになったのです。氷点下30°~40°の極寒のシベリアで、防寒具支給一切なしの中で、石炭の採掘と、貨車積みの労働に従事させられました。食糧も十分でないうえ、主食は粟・大豆・高粱で、しかも精製してないため全員が下痢を起こす始末で、地獄絵図そのままの生活が続き、120名編成のグループで、二か月足らずで70名が死んで行きました。

 

笹目師は、こうした中で、周囲の人々に運命論を説いていきました。「今生において、身に覚えのない辛いことどもに遭遇していることも、過去世において何かあったと見るべきであろう。その償いを現在しているのである。生きることに感謝し、明るい気持ちで『過去の因縁を無事に果たさせたまえ』と念じ、真心を尽くしてその日の業に向かい、一日終われば、無事終えたことに感謝しよう」と。

 

その後、マリュートカ炭鉱の16分所という捕虜収容所に移されました。総員1,000人を超えていましたが、日中の労働を終えて戻ると、夕食後に、民主グループと称する若者たちから共産主義の洗脳教育を受けることになっていました。笹目師は、とても唯物論的共産主義者として自己を枉げて(まげて)まで生きる気にならず、学習会の招集が来るたびに、寝床に横たわって、出席することはありませんでした。

 

ついに、「反動で反民主の、天皇護持論者の笹目」となってしまい、大衆裁判や民主裁判にかけられ、さらに劣悪な環境の収容所を転々とさせられることとなりました。ある時は、30数名の民主グループ全員と格闘を演じ、銃殺寸前のところまで行ったこともあります。そして、酷悪のチタの7分所へ送られることになりました。

 

ここで取り調べを受け、監獄にいれられ、独房生活が4か月経ちました。「蒙古を訪れ、王族の徳王を支援したこと。そして、16分所内でスパイ団を結成し、ソ連国内の事情を調査して、日本へ帰国後にアメリカへ情報提供を画策したこと」の二点を認めよというのです。

 

やがて、廊下の突き当りの36号室に入れられました。「ガチャン」と鉄扉を閉められてから、改めて部屋を見回すと、寝台もないし腰掛もありません。しかも、床はコンクリートです。「これは冷えるわい」と、靴を片方脱いで尻の下に敷き、半跏趺坐にて腰を下ろしました。うとうとしていると、下にしている左足の側面に冷えを感じたため、目を覚まして辺りを見ると、音もなく水が湧き出し、床全体が水に覆われています。極寒の水責めでした。

 

崑崙の疏勒神仙、白頭の呂霊來神仙をはじめ、万神に加護を願う神咒を奉誦(ほうしょう)しながら、壁に寄りかかって居眠りをはじめたが、眠ろうとすると、膝がガクンとし目を覚まします。半分居眠りをしながら大晦日を過ごし、1950年の朝を迎えました。日が昇り始めると、東面の高窓から日の光が差し込んでいるではありませんか。

 

「よーし。これで何年も頑張れるぞ」

 

疏勒神仙から伝授された離火印を結び、太陽の精気を食む秘法に全身全霊を傾けました。ついに水牢に入れられてから28日目に下士官が迎えに来ましたが、普通では3日ともたない水責めであったとのことでした。その後、KGBの監獄にぶち込まれましたが、3か月ですっかり体力は回復していました。認証を拒否し続けることも可能でありましたが、監獄の生活も陰惨で飽きあきしていましたし、やるべきことはやったのだから、いっそ認証して、別の収容所で、別の世界を探検してみるかと思いました。

 

1950年4月29日、取調室であっさり署名しました。5日後、懲役25年の強制労働収容所送りが決定されたのです……

 

 

 

 (注1)『霊界物語』は、全81巻83冊に及ぶ大長編である。古事記に基づく日本神話を根底にするが、聖書、キリスト教、仏教、儒教、エマニュエル・スウェーデンボルグ、神智学、九鬼文書など、あらゆる思想と宗教観を取り込んでおり、舞台は神界、霊界、現界におよぶ。王仁三郎によると、126通りの読み方があるとのこと。予言書としての読み方も存在すると云う。

大正10年(1921年)10月18日から『霊界物語』は著された。王仁三郎は横たわったまま、ある種のトランス状態で口述し、選抜された信者に筆録させる形で著述された。

 

『神仙の寵児第1巻』霞が関書房刊

『モンゴル神仙邂逅記』徳間書店刊

『虹の彼方の神秘家たち』星文訓著 東洋書院刊

 ブログ『今この時&あの日あの時』の『モンゴル神仙邂逅記』

以上から引用させて頂きました。

 

 

出口王仁三郎口述

「霊界物語」