1964年の東京オリンピックより少し前のことです。アメリカで、奇しくもお会いすることができました和田聖公先生について、記憶の限りを記してみようと思いました。
【当時のシアトル】
父は総合商社に勤務しておりました。1960年ごろ、米国の航空機メーカー『B社』との折衝窓口として、新たに、合衆国ワシントン州のシアトル市に事務所を開設することとなり、父はその初代所長として赴任することになりました。
シアトルは、坂道の多い風光明媚な都市で、そのためイタリアのローマ市に準(なぞら)えて、"The City of Seven Hills" と呼ばれていました。市の南には、日系人が『タコマ富士』と呼ぶ秀麗なレニア山が聳え(そびえ)、市の東側には、南北に長く連なる美しいワシントン湖が横たわり、その彼方には氷河を頂いたカスケード山脈が望まれます。また、市の西側には、オリンピック半島の山々を背にして、深く入り込んだピュージェット湾が広がっております。
同市は、米国本土の中で、最も日本に近いところに立地しているため、当時は対日貿易港として有名でした。また、航空機メーカー『ボーイング社』の本拠地であるため、近郊には同社の巨大な旅客機製造工場や専用飛行場が点在し、さらに現在では、マイクロソフトやアマゾンなどの巨大な技術産業の本社が置かれていて、合衆国西海岸でも屈指の世界都市であります。
私たちが住んでいたころは、合衆国ビザを取得するのが難しい時代で、転勤や留学などの明確な理由がない限り入国できませんでした。従って、シアトルに在住する日本人は少なく、領事館・東京銀行・総合商社・汽船会社・航空会社などの駐在員とその家族、そしてワシントン州立大学への留学生くらいのもので、当時の日本人のコミュニティは閉鎖的かつ独特なものでした。
★シアトル市の概略地図です。
【和田先生との出会い】
ある日、母親へ、三井物産のIさんの奥様から「不思議な方が、ロスアンジェルスから来られるので、いらっしやいませんか?」とのお誘いがありました。
両親が、その方の滞在されているホテルへ向かうと、温厚でとても紳士的な日本人がいらっしゃいました。それが和田聖公先生でした。1909年石川県江沼郡山中町にお生まれになり、金沢大学の医学部を卒業後、一時は東京の深川で医院を開業され、医師として活躍されていたそうです。
お尋ねしたホテルには、I夫人も同席されていました。彼女の実家は深川木場の大きな材木商で、幼少のころ病気になると、必ず和田先生が往診してくださったそうです。米国という遠隔の地で、久しぶりに和田先生と邂逅(かいこう)されたときは、本当に驚かれたとのことでした。 ご夫人のお話しによると、その頃の先生は、ご自宅で沢山の戦争孤児を養っておられ、常に経済的に逼迫(ひっぱく)されていて、よく穴の開いた靴下を履かれていたそうです。
和田先生は、もともと道を求める気持ちが強く、仏教を学ばれていました。高野山で滝に打たれて修行中、ふっと人の気配を感じて振り向くと、神々しい男性が立っていました。そして、「本当に道を求める気持ちがあるなら、私について来るか?」と問われました。和田先生は即座に同意されたとのことです。
その男性は、「私の肩につかまりなさい。そして目をつぶるように。」と言われました。素直にその通りにすると、身体が宙に浮かんだ感じがして、耳もとで風を切るような音が聞こえたそうです。やがて「さあ、着いたので目を開けなさい」との声で、目を開けると、全く見たこともない景色が広がっていました。此処が何処かを尋ねると、「ヒマラヤの奥深いところ」との返事でした。あくまでも私見ですが、そこは物質界のヒマラヤではなく、もっと微妙な波動の異次元のヒマラヤではなかったかと思っております。
和田先生を修業に誘われた師は、マスター・ジュワルクール(以下DK大師)というお名前で、人類の霊性を向上させるために尽力されている「聖白色同胞団」の覚者のお一人のようです。 連れていかれた世界は、齢(よわい)数百歳という聖者や、空中に浮遊しながら瞑想する覚者などが日常的な世界で、あたかもベアードTスポールディングの著した『ヒマラヤ聖者の生活探求』や、ニコライ・レーリッヒの絵画の世界を彷彿(ほうふつ)とさせられます。
和田先生は、DK大師のご指導のもと、長いあいだ修業を続けられました。しかし、現世の時間にすると短かったようです。やがて修業が一段落すると、再び日本へ戻されることとなりました。
しばらく、医師の仕事を続けながら暮らしておられました。
すると、再びDK大師から、アメリカのロスアンジェルス(以下LAX)へ行くように指示があり、何も持たず、身一つで向かわれることになりました。それに際して、DK大師から「LAX空港に、こういう風体(ふうてい)の白人青年が迎えに来ているので、後はその青年の指示に従うように」とのメッセージを受けとられたそうです。実際に空港に着くと、その通りの風貌の青年が待っていました。
早速、LAXの日本人街「リトル・トーキョウ」に居を構え、日系人の社会へと溶け込んで行かれたのです。不幸せな境遇にある日系人や、米兵と結婚して、渡米後に捨てられた多くの日本人女性に奉仕をされていました。
一方で、現地のラジオ局で「ヨガの番組」にレギュラーで出演されたり、各地で『真実の生き方』や『臍帯呼吸法』について、英語で講演をされていました。そんな和田先生を慕って、多くの人々が集まるようになったのです。
また、DK大師の高弟のアリスベイリーがニューヨークに開校した「アーケイン・スクール」や、インドやチベットの秘院で秘教を学び、シャンバラで奥義を伝授されたと云うドーリル博士が、コロラド州のデンバーに開いた「ブラザーフッド オブ ザ ホワイトテンプル」とも、密かな繋がりがあったようです。
その後、先生は大学へ論文を提出され、1962年にコロラド州立大学より哲学博士号を、1966年にイリノイ州立大学より神学博士号を、そして、1967年にはイリノイ州立大学より理学博士号を授与されております。
毎朝3時頃に起床されて、バスタブに冷たい水道水を溜めて、それに静かに浸かりながら般若心経を唱えられていました。カリフォルニアの水道水は、カスケード山脈の氷河の解けた水ですから、ものすごく冷たく、常人にはとても真似できないことだと思います。水行が終わると、DK大師から伝授された臍体呼吸法を行じ、深い瞑想に入られるのでした。お食事も、普段は豆腐などの簡素なものしか食べられなかったようです。
日系人には、日本語で教えを説かれていましたので、当時は日本語の印刷物も多数出回っておりました。先生の教えは、一つも奇異なところのない、とても自然なものであったように記憶しております。英文の冊子 "The Sun" では、自然に沿った簡素な生き方と、全てのものへの感謝の想いが大切であることを説き、臍体呼吸法について解説されております。先生の文書には、占星術についての記述も多く、しばしば太陽星座別の個性と傾向を、秘教占星学の立場から述べられていらっしゃいました。
和田先生は、数ヶ月に一度、シアトルを訪れられて、皆に教えを説き、臍体呼吸法の指導をされていました。両親も、ときどき参加させていただいては、ご指導を受けていたようです。臍体呼吸法は、当初は左手を臍体に、右手を肝臓辺りに当てて、触れている感触を味わいつつ、臍を前後に出したり凹ましたりする腹式呼吸法でした。暫くすると、両手の親指同士と人差し指同士を触れるようにしながら、両手で臍体を囲むようにして腹部に手を当てる方法となりましたが、母は先生に手を取って教えていただいたのが良い想い出だと言っておりました。
私は、当時まだ “Asa Mercer Junior High School” に通う14~15歳位の中学生でしたが、両親の薦めもあり、和田先生の会に一度参加させていただきました。内容については、あまり記憶がございませんが、ワシントン州立大学の教授が参加されていて、和田先生の話を熱心に聞いていらっしゃったのが印象に残っております。
私の父は気さくな性格で、日系人のライオンズクラブに入会するなど、日系人社会に深く入り込んでおりました。そのため日系人の友人も多く、その中に、和田先生を熱心に崇拝する方がいらっしゃいました。瀬古さんという方で、当時のシアトルでは有名な『武士亭』という和風レストランのオーナーでした。同レストランは、父が、取引先のボーイング社の方々を、ときどき食事に招待する際に使っておりました。
その瀬古さんから、「和田先生をお食事にご招待しているので、ご家族ご一緒に如何ですか?」とのお誘い頂きました。その夜は、先生と瀬古さん、そして両親と私の五人でテーブルを囲んで、いろいろなお話しを伺う機会に恵まれたのです。
ずいぶん昔の事なので、記憶も定かではありませんが、
① 先生がDK大師に連れられてヒマラヤの奥地へ行ったこと。
② そこで見た不思議な現象の数々。
③ DK大師ご自身について。
以上が話題の中心であったように思います。
私にとって印象に残っていたのは、DK大師が、ある米国人の女性に膨大な教えを書かせたとのお話しでした。今にして想えば、アリス・ベイリーのことを言われていたのだなと理解できます。
先生に「魂は本当に有るのですか?」等という稚拙な質問をし、それに対して真剣にお答えてくださったことを記憶しております。そのお答えの内容については、申し訳ないのですが、よく覚えておりません。 また先生が、一人の日本人女性に情を懸けたとき、DK大師からお叱りを受けた話など、素直に包み隠さず、ご自身のことをいろいろとお話しくださいました。
瀬古さんは、「和田先生から、DK大師のお写真を見せていただいた。とても優しいお顔でいらっしゃった。」と言われていました。衝撃的であったのは、瀬古さんが「DK大師は、前の世において、わが国の弘法大師空海として生を全うしたこともある。」と言われたことでした。和田先生も否定をなさらなかったので、恐らくは真実のことだと思っております………。
アリス・ベイリーの著作から、DK大師について書かれた一節がありますので、ご紹介したいと思います。
『DK大師は、愛と叡知の第二光線のマスター(大師)である。(全部で七光線あり、その内の五光線が物質界に顕現している。因みに、イエス・キリストは奉仕と献身の第六光線)。1875年に第五イニシエーション(霊的覚醒)を受けた。彼は、イニシエーションを受けたときの肉体をいまだ使用しているため、その身体は若くなく、チベット人の外貌である。マスター・クートフーミーに対して非常に献身的であり、喜んで奉仕している。彼は、光線と太陽系にある惑星の霊的階層とについて、深く学び、よく知っている。彼は治療する人々とともに働き、世界の大きな研究所にいる真理の探求者、世界の治療と慰安とを目指す全ての人々、赤十字のような世界の大きな慈善運動などに協力している。しかし、知られることもなく、見られることもない。また、霊界の治療を目的とする霊団とともに働いていて、人類の肉体的な病気を治す仕事に協力している。』
★米国で発刊された
英文の冊子”The Sun"
★和田先生のお姿
【その後の和田先生】
1965年の初夏、父が東京の本社へ異動となり、皆で帰国することとなりました。父は5年以上、母と私は3年半のシアトルでの生活でした。長く親しんだ街を離れるのは寂しいものがありました。それ以来、和田先生とのご縁も途切れたままになってしまいました。
帰国後は、父は仕事が大変忙しくなり、毎日帰宅も深夜となるありさまでした。私は、9月に私立中学校の3年に編入し、翌年には高校へと進学し、友人もでき、それなりに楽しい学校生活を送っておりました。
そんな折、既に帰国されていた三井物産のIさんのご夫人から母に、「和田先生が一時日本へ帰国されます。この度、帝国ホテルで先生の出版記念パーティーがあるので、いらっしゃいませんか?」とのお誘いがありました。残念ながら、その日は都合が付かず参れませんでした。
和田先生は、DK大師の教えを平易に説かれましたが、軸足は常に仏教に置いてられました。DK大師の教えを説くにあたって、アリス・ベイリーがキリスト教や神智学などの西洋的な宗教観を基盤にされているのとは対極にあったと思われます。
帰国後、先生は仏教界と接点を持たれ、高僧と対談されたり、仏教系の出版物に執筆されたりしておられました。また、真理を求める人々のために、DK大師の教えを説き、臍体呼吸法についての講演をなさるなど、忙しい日々をお過ごしでいらっしゃいました。その合間に、帝国ホテルの一室に篭り、「仏教とヨガ」「ヨガの臍体呼吸法」「般若心経の解説」「観自在菩薩と祈り」の四冊の書籍を著されています。やがてこれらの本は霞ヶ関書房から出版されました。
その出版記念パーティーが、岡本正人社長主催で帝国ホテルで開催されました。三井物産のI夫人のお話しでは、パーティーも終盤に近づいたころ、先生が突然行方不明となられたそうです。ところが、翌朝カナダから電話があり、中座の非礼を詫びられました。DK大師のご指示であったのかもしれません。いずれにしても航空機を利用されたなら、その時間にはカナダには到着出来ないのは明白です。
後日、I夫人から、和田先生が「島田さんたちにお会いしたかった」と言われていた由を伺って、父母は恐縮するとともに、とても残念がっておりました。
アメリカへ戻られて暫くすると、先生の消息が分からなくなりました。
それから数年後、霞ヶ関書房から数ページのリーフレットが届きました。そこには驚くべき内容が書かれていたのです。それは和田先生の消息でした。恐らく、和田先生から霞ヶ関書房の社主の岡本氏へ何らかの通信があったのでしょう。
先生は、アラスカやアリゾナで修業をされていると記されておりました。恐らく、DK大師のご指導のもとだったのだと思います。そしてある日、空中に滞空する巨大なUFOの母船に招かれて、テレポーテーションのような状態で搭乗されたそうです。そして、都市のように巨大な宇宙船の船長に引き合わされました。まるで神人のような、とても高貴で愛に満ちあふれた方だったそうです。その船長の語ることによれば、以前はアメリカ合衆国のリンカーン大統領として活躍したこともあったが、地球での使命を全うし、今では火星に転生し、地球に真の平和を打ち立てるために、人類には気が付かれない立場で、大変な尽力をしているとのことでした。
その後、和田先生の行方は、杳(よう)として知れないままです。
恐らく、活躍の場を宇宙に移されたのではないかなどと、母と話しておりました。