【わが家と淘宮術】
明治の中頃のことです。
私の高祖父にあたる二代目武助とその妻は、長女(曾祖母)を溺愛するあまり、嫁に出す決心がなかなかつきませんでした。そして、考え抜いたすえに婿養子を迎えて新たに分家を起こすことにしたのです。自分たちの傍に住まいを設け、家具商として独立させました。これがわが家(新宅)です。
しかし分家は、曾祖母以来、二代にわたって男子に恵まれず、祖母と母も婿養子を迎えております。
彼女たちとその配偶者は、本家(本宅)と同じように、代々『天源淘宮術(以下淘宮)』に入門してまいりました。
私は、淘宮には入門しませんでしたが、幼少の頃より、母や祖母から、淘宮の大家で、しかも霊癒能力に秀でた『片谷忠三先生』の話をしばしば聞かされてまいりました。今にして思えば、なかなか魅力的な人物であったようです。
もはや、その先生について知る人は誰もいないと思いますので、私の知る限りのことを記しておくことにいたしました。
【天源と淘宮の起源】
そもそも、淘宮とは、徳川将軍家の家臣である横山丸三(まるみつ)によって発明された開運術です。丸三(淘祖と呼ばれている)は江戸城勤番の御家人でしたが、同輩の御家人から自分の運命を看命(かんめい)され、あまりにも適中していた事から、大変興味を持ちました。その人は、奥野南卜(おくのなんぼく)と号し、天源術(以下天源)の免許皆伝者でした。
天源は、天海僧正によって創見された、幹枝学・観相学・方位学などを内包する学問体系です。天海は黒衣の宰相と呼ばれ、天台僧として家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、徳川幕府の基盤造りに貢献いたしました。天海は、天源によって、大名諸侯の資質を見抜き、その転封改易(てんぽうかいえき)を将軍に進言したり、江戸の都市設計や寺社の配置を行ったと伝わっています。また、江戸町奉行で有名な大岡越前守も天源を深く修め、観相により、罪を犯したかどうかを看る(みる)に、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であったとのことです。
丸三は奥野南卜に入門し、師から免許皆伝を許されるまでに至りました。ある日、丸三は師の南卜から「私は、まもなく口が利けなくなるので、聞いておきたい事があれば、何月何日までにしておくように。」と言われました。その日をもって、南卜は中風を発症し、口が利けなくなってしまったのです。
丸三は悩みました。天源で看命した通りの人生を辿るだけならば、また、運命に改善の余地が無いのであるならば、何も天源を学ぶ必要がないのではないかと……。そして、定まった運命から抜け出してこそ、この世に生まれた本当の意義が有るのではないかと……。
以降、丸三は、天源で看命された運命から脱け出すために、真剣に法を求め、工夫を重ねながら修行し、その結果に生み出されたのが淘宮でした。
淘宮は、各自の天稟(てんぴん=天から授かった資質)によって、修行方法がそれぞれ異なるため、定まった教えと云うものがありません。まさに、言外の教えと云うことになります。
強いて要約すれば、『天地神明在我身』と教旨にあるとおり、本心(内部の神性)の啓示を得るように努め、それに従うのが修行とされています。そして、陽気と感謝に満ち溢れた、晴れ晴れとした捉われない心で人生に処することができれば、自由自在な生きかたができるようになると言われています。このような状態を、淘宮では開運と云い、それに至る道程として、天源により、各自が授かった己の気質を知ることが肝要とされています。
天源で予見される運命を、淘宮によって超越し、真の開運を果たした丸三のもとに、大名、旗本や豪商をはじめとする多くの門人が集まりました。
その隆盛は昭和初期まで衰えず、門人達が自分の修行について、皆の前で語る「お席(おせき)」と呼ばれる集いが各所で開かれていました。華族、財閥家、豪商、不在地主などが名を連ね、まるで上流階級のサロンのような雰囲気であったそうです。
【片谷忠三師のこと】
わが家は、江戸時代には東海道の川崎宿で格式ある旅籠(はたご)「朝田屋」(天保10年の家格は上)を営んでおりました。
江戸時代の後期、朝田屋島田武左衛門の三男・初代武助(文久3年没)が呉服店を起こし、「横浜の鶴屋(現在の銀座松屋)か、川崎の朝田屋か」と並び称されるほど繁栄し、その財力によって、川崎でも一二を争う不在地主(ふざいじぬし)となりました。
※不在地主=広大な農地(小作地)を所有しながら、所有地のある村に居住していない地主のこと。戦前の日本では、不在地主の所有する小作地が多数存在し、これらの不在地主の多くは都市に生活し、小作地には管理人をおいて小作料を徴収させていた。
そのため、私の高祖父にあたる二代目武助は、初代の川崎市長(当時は町長)であった石井泰助氏の後を継いで、二代目川崎市長を仰せつかり(おおせつかり)、川崎振興のために、鈴木商店(現在の味の素)に、自らが所有する農地の一部を工場用地として寄贈しております。
淘宮には色々な流れがありましたが、わが一族が入門したのは、淘宮の祖・横山丸三直系の横山一門で、当代きっての天源の研究家で、淘宮の免許皆伝を授けられた片谷忠三師でありました。また、師は霊癒能力にも秀でた方でありました。
片谷先生は、当初は品川の番場に住まわれておりました。母が子供の頃(昭和初期)、祖母に連れられて何度も片谷邸を訪れたそうです。京浜急行の番場駅で降り、海岸方面へと向かうと、なだらかな丘になっていて、坂を上り切った左手の二階家が先生のお住まいでした。家からは品川の海が望まれ、とても美しい眺めだったそうです。
その後、先生は隅田川近くの蔵前片町(くらまえかたまち)に移られました。新しい住まいは、門を入ると植栽に囲まれた細長い路地になっていて、その先に玄関がありました。家は数寄を凝らした(すきをこらした)素敵な造りであったそうです。先生は奥様と病身で寝たきりの母上と暮らしておられましたが、常に若い女中さんが二人いて、ご家族の身の回りの世話をしていたそうです。
先生は財には恬淡(てんたん)とされていましたが、安田や三井などの財閥家や、豪商や不在地主などの門人たちが、皆で相談して、お金を出し合って先生の暮らしを支えていたようです。したがって、一般の方々には、一切の会費や費用は請求なさいませんでした。
「お席」が開かれるときは、趣味のよい庭に面した大きな和室二間(ふたま)をぶち抜きにして、多くの参加者が座られました。宮家の方々の座る上座(じょうざ)も設けられていたそうです。
まだ幼少であった母は、ときどき祖母に連れられて「お席」に行ったそうです。家の女中さんが、『なんか屋(駄菓子屋のこと)』で買ってきてくれた、役者の似顔絵の描かれた『おもちゃの指輪』をしていると、隣に座っていた華族の奥方から、「お嬢ちゃん、素敵なものをされているわね!」と声をかけられたことをよく覚えていると申しておりました。
当時は、本家や分家も財に恵まれていましたので、先生のスポンサー的な存在でありました。そのため、ときどき川崎の家まで先生が訪ねて来られたそうです。「インバネスをはおり、ステッキを片手に持って、店の脇にある門から入って来られ、中庭から母屋の方に歩いて来られる姿が、今でも瞼(まぶた)に浮かぶ」と、母はよく言っいました。
また母は、片谷先生のご母堂と、天源の受胎年月日(魂が肉体に定着する日)の十二支の組み合わせ(三輪という)が同じであったため、先生からお母上と同じ名前を賜ったとの事です。
蔵前のお宅では、「お席」が定期的に開かれました。弟子達が自分の修行について語るのを(淘話と云う)、「うんうん」と頷かれながら真剣に聞いておられ、最後に適切なご指導をされていたそうです。
先生は、元々は士族の出で、淘宮に入門する前から、真理を求めて、天源をはじめとする、さまざまな神秘学を研究されていました。したがってお話も面白く、単なる淘宮の師とは一味違っていたようです。
若かりし頃、天源や神秘学の書を求めて、各地を探し回わられましたが、「片田舎の路地裏の陋屋(ろうおく)に住む老婆が、とんでもなく貴重な書籍を持っていた」と、よく話されていたそうです。また、「やがて大天(だいてん)に『煉(れん)』の気が廻って来るので、誰もが働かなければならない世が来る」と、常々言われていました。
霊的な修行も随分となさったようで、ある日、精神統一をされていると、突然に身体が浮き上がったので、上を見上げると赤い天狗の顔が見えたとのことです。また、ある方が、先生のお宅に訪ねて来られましたが、その人の背後から、天狗の団扇(うちわ)が煽ぎ(あおぎ)ながらついてくるのが見えたので、先生が「天狗さまにお詣りされましたか」と問うと、「大雄山(箱根に在る天狗を祀る曹洞宗の寺院)に行って参りました」と答えたなどの、スピリチュアルな逸話が頻繁にあり、弟子たちにとっては、そのような話しを聞くのが、楽しくてしょうがなかったようです。
また、ここでは「お席」とは別に、「お術(おじゅつ)」と称する霊癒が行われていました。片谷先生を中心にして、皆が周りを囲むように円く座りました。師が各自に手をかざしたり、摩ったりすると、皆の身体が自然に動きだし、そのうち自らの手で患部を撫でたり、摩ったり、息を吹きかけたりして、自分自身を癒し始めるのでした。中にはのたうち回ったり、何事かを叫ぶような人もいたそうです。一段落すると、円座の中心に戻り煙管で一服されてから、再び手をかざされたり、摩ったりされていたそうです。そして、霊癒は自然に終了し、順々に各自が先生に挨拶されて帰って行ったそうです。先生は、一切の報酬を受け取られませんでした。
祖母は乳腺炎を病んでいましたが、片谷先生の「お術」によって、その日のうちに、突然に胸に傷口が生じ、そこから膿が出て完璧に治癒してしまったそうです。 先生のお宅には、野良犬や小鳥までが病気を治してもらいにやって来たそうです。
また、先生は観相(かんそう)を得意とし、画相(がそう)を読み取られる能力をお持ちでした。例えば、「お妾(おめかけ)」がいることを一瞬にして見抜かれ、その女性がどんな風体(ふうてい)をしているのかも分かってしまったそうです。先生は少し赤ら顔の立派な容貌をされていましたが、その清冽(せいれつ)な眼で見つめられると、全てを見透かされてしまったような心地がしたそうです。
ある日、片谷先生が省線電車に乗ると、乗客の大半に『頓死(とんし)の相』が出ているのに驚かれました。それから数日後に関東大震災が起こったとの逸話があります。
【曾祖母の修行】
私の曾祖母は、何不自由ない環境に育ち、しかも美貌に恵まれていました。
華族女学校に学び、フェリス女学院を卒業し、歌道は佐々木信綱に入門し、茶道は井伊大老の師「片桐宗猿」の高弟「田中何某」から直接教えを受け、石州流の免許皆伝を許されて「清泉庵宗止」の名を頂くなど、当時の女子としては最高の教育を受けました。
日本橋の、元禄以来の老舗に嫁ぐことが決まっておりましたが、両親が娘を手放すのが惜しくなり、五日市(現・あきる野市)の名主で、銘産の絹織物「黒八丈(くろはちじょう)」の仲買で財を築き、当時は銀行を経営する家から婿養子をとり、分家を興しました。
しかしながら戦後は、農地改革によって所有していた農地の全てを国に取り上げられ、新円切り替えで預金や債券は紙切れと化し、それに追い打ちをかけるように、祖父の資産運用の失敗、そして父の事業の失敗で、全財産を失ってしまいました。
借金取りが頻繁に訪れ、貧窮(ひんきゅう)の極み(きわみ)に陥ってしまいました。当時は、川崎の家も既に人手に渡り、東京目黒区に住んでおりましたが、女性たちの着物や宝石類を質屋で換金しながら、自宅に慶應の大学生を住まわせ、下宿屋で糊口(ここう)をしのぐ有様でした。
そんな状況でも、文句や愚痴のひとつも言わずに、老齢で腰も曲がっているのにも関わらず、粗末で継ぎはぎだらけの着物を着ながら、休むことなく働いていた曾祖母の姿が目に浮かびます。
風呂場から、入浴中の曾祖母が「ありがたい」「ありがたい」と言っている声がよく聞こえてきたそうです。淘宮の修行を、本気で実践していたのは曾祖母であったと、しみじみと母がよく言っておりました。おそらく、このような境遇に陥った自分の至らなさを感じ、真剣に淘宮を行じていたのかもしれません。
片谷先生は、太平洋戦争が激化すると埼玉方面へ疎開され、その地で亡くなったそうです。その後、先生の集められた貴重な書籍はどうなったのでしょうか?
わが家も、戦時中は、曽祖父の実家の在った五日市町(あきる野市)の寺院へ疎開したため、再び先生にお会いすることはなかったそうです。
戦後、私がまだ幼少の頃、母や祖母に連れられて、淘宮にご縁の有る方々と一緒に、文京区小日向(こびなた)の寺院にある墓所にお詣り行った記憶がございます。母も逝ってしまった今となっては、どなたの墓所であったかは不明ですが、おそらくは片谷忠三先生の墓所ではなかったかと思っております。
川崎の新宅跡
現在、公共施設となり、市の所有となっている。
あきる野市五日市町の開光院
右手長屋門の一角に疎開
曽祖父の実家跡の一部
五日市町一番地
現在保存されている