インド占星術と歳差について

 

インドの占星術は、古来からの月を中心とする占星術に、ヘレニズム起源のホロスコープ占星術が組み合わされて発展して来ました。

 

インド占星術とヘレニズムの占星術との決定的な相違は、歳差に関わるものです。

 

小アジア(現在のトルコの地中海沿岸地方)に在った、ギリシャの植民都市ニカイアの天文学者ヒッパルコスは、春分点が黄道を後退(西方へ移動)し、約25,700年かけて一周して、元に戻って来ることを発見しました。これを歳差と呼びます。地球の回転軸は23.5°傾いており、その回転軸が上記年数をかけて首振り運動をすることに起因しています。歳差が発見されて以来、天文学やヘレニズムの占星術では、黄道を後退する春分点が黄道座標の原点になりました。

 

しかしインドでは、ヘレニズムの占星術が輸入された西暦300年頃の春分点を、牡羊座の初点として固定し、それを黄道座標の原点としたのです。インドでは、歳差のことを知らなかったわけではなく、あえて暦法にも占星術にも取り入れなかったのです。

 

歳差は、サンスクリット語でアヤナと云い、歳差を考慮に入れないインドの伝統的な黄道座標 をニル・アヤナ方式と呼びます。一方、西洋占星術のように逆行する春分点を基準とするものはサ・アヤナ方式と呼び、この二つの座標原点の差を、アヤナーンシャと云い、暦法の重要な要素としています。

 

歳差は、72年に1°ですので、インドで原点が固定されてから約1,700年経った現在では、アヤナーンシャは23.5°にもなります。即ち、西洋式の黄道座標とインド式のニル・アヤナ黄道座標との差が23.5°と言うことです。

 

これを太陽運動の日数にするとおよそ24日(=23°30′/59′8″)となり、春分が3月21日頃ですから、インド方式の牡羊座に太陽が入るのは4月14日頃からということになります。従って、例えば4月1日生まれの人は、現代の西洋占星術では、太陽は牡羊座に在ることになりますが、伝統的なインド占星術では魚座ということになります。

 

インドでは何故このように歳差を取り入れようとしなかったのでしょうか?

それは、非常に古くから、月の満ち欠けを中心とした暦を用いる習慣があったことと、これに基づいた独特な月の名付けかたが有り、それがヒンドゥーの宗教祭祀や行事と深く結びついていたからです。

 

インドの太陰暦の月の名前は、当該月の満月が宿る星宿(27宿)の名前の派生語なのです。例えば、インド暦の1月はチャイトラ月と云いますが、星宿の一つ、チトラー宿に満月が宿る月のことを云うのです。チトラー宿は、恒星スピカが主星であり、このスピカが、西暦300年頃には秋分点の近くに在ったため、このスピカの近くに満月が在る日には、太陽は180°離れた(オポジションの)、当時の春分点の近くに位置することとなりました。

 

従って、この時期が、インド占星術の牡羊座の始まりと定められました。ところが、長い歳月の間に、春分点は黄道上を後退し、インド占星術では、牡羊座のカスプ(境界)と春分点とが一致しなくなってしまいました。もし、歳差を取り入れたら、月名とその満月が宿る星宿の名前がずれて行くことになってしまうので、それを避けようとしたのです。

 

この暦法によって、太陽の位置と月名の関係は犠牲にせざるを得なかったのです。つまり、本来は春分のころの月(西暦の3月21日頃)であり、インドでは年の始まりでもあったチャイトラ月が、現在では西暦4月14日ころから始まる月となってしまったのです。釈尊の誕生日は、ヴァインシャーカ月でありますが、これは釈尊の時代ではちょうど花の咲き始める春の季節であり、花祭りにふさわしい月であったのです。しかし、現在では、ほぼ5月にあたり、インドでは最も暑い時期になってしまいました。

 

 

★勁草書房「星占いの文化交流史」 矢野道雄著を参考にさせていただきました。