聖ラーマクリシュナ

 

インドは、無数の聖者を輩出してきました。

 

しかし、インド四千年の宗教思想史上に現れた三大聖者といえば、

①まずは釈尊ことゴータマ・シッダールタ(前549~486)。

②次は、ヴェーダーンタ哲学の不二一元理論を完成させたシャンカラ アーチェリヤ(788~820)。

③そしてもう一人が19世紀に生涯を送ったラーマクリシュナ大覚者(1836~86)と言われています。

 

ラーマクリッシュナは、19世紀に実在した覚者で、実相界と肉体界を行き来した、愛一元の大聖者です。

高弟のビベーカナンダは、米国で開催された世界宗教者会議で、インドの霊性について講演し、全ての宗教は一元であるとの主張は、全宗教者から熱烈な支持が得られたました。

 

ラーマクリッシュナの言行は、「不滅の言葉(コタムリト)」に載せられております。心惹かれる一節を書き写しました。

 

 

★★★★★★★

(信者)

先生、どんな方法をとれば神にふれることができるのでございましょうか?

(聖ラーマクリッシュナ)

信仰が一番。神様はあらゆるもののなかにいらっしゃる。

それじゃあ、神の信者とはどういう人のことを言うのかね?

それはね、心がいつも神様のところに在る人のことだ。

我執と高慢があっちゃあ、それはできない。

゛ワタシ゛の大きな塊(自我への捉れ)の上には、神の恵の水は溜まらないで流れ落ちてしまう。

゛私゛はただの道具なんだ。

 

それから、ケダルをはじめ他の信者達に向かって、次のように話された。

 

どの道を通っても神様のところへ行ける。

どの宗教だって真実(ほんとう)だよ。

屋根に上がることが問題なんだ。

それは石の階段でも上がれる。

木の階段でも上がれる。

竹ハシゴでも上がれる。

それから綱をよじのぼっても上がれるし、竹竿を使って高飛びしても上がれるわけだ。

 

ほかの宗教には間違いや迷信があるというのかね。

そりゃそうさ、どの宗教にだって間違いはあるよ。

誰もが自分の時計だけ正しいと思っているんだよ。

 

神様を慕う心があれば、それでいいんだ。

あのお方が大好きになって、求める気持ちがあればそれでいいんだ。

 

あのお方は、ひとの心のなかのことは何もかも御承知でね、願い事や、憧れていることを全てお見通しだ。

 

一人の父親におおぜい子供がいるとしよう。

年長の子供たちは、お父さんとか、パパとか、ハッキリ発音して呼ぶ。

けれど、小さい子や赤ん坊は、せいぜい゛ター゛だの、゛パー゛とか発音するだけで呼んでいる。

この゛ター゛だの゛パー゛とだのしか言えない子供らのことを父親は怒るかね?

父親は彼らも自分を呼んでいるであって、ただうまく発音できないだけだ、ということがわかってるのだ。

父親にとってはどの子も同じさ。

 

それから信者たちは、あのお方のことを色々な名前で呼んでいる。

だが、ひとりのお方を呼んでいるんだよ。

一つの貯水池にいくつもの水汲み場がある。

ヒンドゥー教徒は或る水汲み場で水を汲んでジョルといい、イスラム教徒は別な水汲み場で汲んでパーニーと呼び、キリスト教徒は、また別な水汲み場で汲んでウォーターと呼んでいる。また、ほかの人たちは別なところから汲んでアキュアと言っている。

一つの神に様々な名前があるだけだ。

 

(マルワリからの信者)

お聖人さま、形ある神(人格神)を拝むのは、どんな意味があるのでございますか? また、形のない神とは、いったいどういうことなのでございますか?

(聖ラーマクリッシュナ)

お父さんの写真を見るとお父さんを思いだす。

ちょうどそれと同じことで、神像を拝みつづけていると、実相のすがたが見えるようになるんだよ。

人格神の形はどういうものだか、わかるかな?

溢れ出る水の中に゛泡゛が浮かぶ----あの様子だ。

無限の宇宙と無限の意識から、一つ、一つと形が浮き上がって来るのが見えるのだよ!

神の化身(アヴァタラ)と言われるのもその一つだ。

神の化身の遊戯三昧は、根元造化力の楽しい遊びだ。

 

学問なんか何になる。

恋い慕って呼べば、あのお方が得られるのに、色々なことを知る必要はないよ。

(これは、現代人にとって、味わい深い言葉です)

 

 

★★★★★★★

夕暮れになった。

タクル(ラーマクリッシュナ)は、ガンガー(ガンジス河)の流れを眺めておられる。

部屋にはランプがつき、聖ラーマクリッシュナは寝台の上に座って宇宙の大実母の名を称えながら、あの御かたに想いを馳せておられるのだろう。

神殿では献燈が始まった。堤防の上や五聖樹台のあたりを散歩している人々は、遠くから聞こえてくる甘美な鈴の音色を聴いている。

折しも潮が満ちてきて、河の水がチャプ、チャプと音をたてながら河上にのぼっていく。

献燈の音とこの水の音とがいっしょになって、一層、甘くやさしい響きになっている。

こうした中に、至福に満ちた聖ラーマクリッシュナは坐っていらっしゃるのだ。

辺りのすべては甘やかに美しい!

そして、お胸のうちも甘くやさしい。

何もかも、甘く、やさしく、美しい。