川面凡児と神道

たまたま、横浜在住の小室昭治先生から、「自然波動法」と云う、とてもスピリチュアルな治療法を学ぶ機会に恵まれました。

 

小室先生は、明治大正に活躍された神道界の巨人・川面凡児(かわづら ぼんじ)先生の創設された「稜威会(ミイズ会)」の会員で、「海の禊」の行法を実践普及されていました。

 

私も、この禊に数回参加させていただきましたが、それはとても厳しいものでした。三浦半島先端の城ケ島で、二月の極寒のさなか、天の鳥舟運動と祝詞奏上の後、夜も明けない前から、気合とともに海に入り、振魂の行を続けるのです。やがて、水平線から太陽が昇るさまは、何とも言えない荘厳な雰囲気で、今となっては懐かしい想い出です。

 

この、川面凡児先生ゆかりの宇佐こそ、先に掲出したブログ「辛嶋氏の語る神道の起源」にも関連する地であります。

 

もともと九州の宇佐には、安曇氏や宗像氏などの海洋民族が集住しておりました。やがて、その辺縁部に秦氏の一族である辛嶋氏が入植し、宇佐八幡宮弥勒寺を建造しました。秦氏は中央アジア出自の渡来民で、畑作、養蚕、機織、銅の採掘、土木、鍛冶など、当時の最先端技術を大陸から日本にもたらしました。 大和朝廷は、これらの技術を持つ秦氏を、山背の地(今の京都)に招聘したのです。

 

そして、秦氏の長である秦河勝が、山背国の太秦に本拠を構え、桂川や加茂川の治水工事を行うとともに、広隆寺や伏見稲荷などの寺社を建立しています。さらに、河勝は聖徳太子に仕え、強力な支持勢力となっています。また、後に聖武天皇が東大寺の大仏を鋳造するときには、九州の香春や宇佐の秦氏が銅の供給元として大活躍しました。 稀代の神道家・川面凡児の生まれたのは、こんな歴史的な背景をもつ地でありました。

 

彼は、幼少の頃から道を求める気持ちが強く、少年の頃、宇佐八幡宮弥勒寺の背後に聳える神気のこもる霊山の御許山(馬城峯)に、友達三人を誘って山中の修行に挑んだことがありました。 友達は、蛇や猪の出没する山の恐ろしさに耐え切れず、早々に退散しましたが、彼だけは一人残って21日間の行を続けました。「天の鳥船運動」と「振魂の行」を続けながら、心魂を練って行ったのです。

 

21日の行を終えて、帰ろうとしたとき、杉木立の間から白い猪にまたがった小柄な仙人がふいに顕れて、「ご苦労だったな」とねぎらってくれたそうです。名前を聞くと、仙人は、「蓮池貞澄」と名乗りました。仙名は「童仙」とのことです。童子のように血色が良く、不思議に思って年齢を尋ねると、679歳と称するのでした。

 

仙人は、ずっと肉身のまま長寿を保っているのか、それとも仙人の霊体が一時的に身体化して凡児の前に出現したのか、よくわかりませんでした。或いは、凡児の霊眼が開けて、仙人の霊体と交信したのかもしれません。深い事情はわかりませんが、この不思議な出会いから約3年の間、凡児はしばしば御許山に登っては、蓮池仙人から親しく指導を受け、禊ぎの手法を含む秘密の神伝を授けられたのでした。

 

川面は、神秘的な出会いを振り返り、世界教立教の動機をこう記しています。「家に秘伝あるとともに、また八幡大神霊顕の根本勝地たる馬城山中において、その人に会い、禊流の神伝、全く愚かなる身に伝わるの喜びあるに至る。これ、我がその愚を顧みず、猛然決起し、世界に比類なき神代思想、神代行事を鼓吹、唱道するゆえんなりとす」。

 

大正14年4月、オーストラリアの心霊治療家のフランク ハイエット氏が来日し、川面を訪問しました。凡児は、ハイエットに会うなり、前生を透視し、「貴殿は、プレアデス星団の緑の星に生まれたことがある。当時、私も一緒に住んでいた」と伝えました。これを聞いて、ハイエットは驚愕し、「実は、自分も、緑の星から下ったものであることを啓示によって知り、これこのとおり詩を書いている」と言って、持参したカバンの中から自作の詩を取り出すのでした。

 

余談ですが、心霊現象を研究していた英国の医師で作家のコナン ドイルも、このハイエットの超能力には脱帽していたほどでありました。 また、凡児は、ブラバッキ―とともに神智学協会を立ち上げた、米国人のオルコット大佐が来日した際にも、相まみえております。

 

「宇宙の大道」は、排他的な信仰であってはならず、信仰を異にする人でも、歩むことのできる広い道でなければならない。そうでなければ、人類全体を統一霊化することはできないだろうと川面は考えました。

 

世界の万教の神々は、神道はもちろんのこと、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など全ての宗教を含めて、世界教の全一神の枠内に統合され、その中に位置づけられる、と川面は構想しました。 全一神の観念は、『古事記』などの日本古典から発掘し、再構築したものでありますが、それは古典が編集される以前の、遥か昔から古代人の持っていた観念であり、人類意識の最古層に潜んでいるものと川面は考えていたのです。

 

そして、川面の万教帰一論は、大本教の出口王仁三郎など、後に続いた神道家に多大な影響を及ぼしました。

 

 

最後に、戦前の霊的傑物出口王仁三郎聖師の言葉を記して終わりと致します。

 

「半可通的論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと言っているが、かかる連中は我が国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神(どくいつしんしん)にして天之御中主大神と称えたてまつり、その他の神名はいずれも天使や古代の英雄に神名を付されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。ゆえに、どこまでもわが神道は一神教であるのだ。~「瑞言祥語」『出口王仁三郎全集5』」P555~。

 

 

霊界物語第63巻第4章 山上訓

…前略  

かく話すところへ天空に嚠喨たる音楽聞こえ、月を笠に被りながら一行が前に雲押し分けて悠々と下りたまうた大神人がある。玉国別一同はこの神姿を見るより忽ち大地に平伏し感涙に咽んでゐる。この神人は月の御国の大神に在しまして産土山の神館に跡を垂れたまひし、三千世界の救世主、神素盞嗚の大神であつた。

 

大神は一同の前に四柱の従神と共に輝きたまひ、声も涼しく神訓を垂れたまうた。一同は拝跪して感謝の涙に暮れながら一言も漏らさじと謹聴してゐた。

 

神素盞嗚の大神が山上の神訓

一、無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真の神は、只一柱在す而已。之を真の神または宇宙の主神といふ。汝等、この大神を真の父となし母と為して敬愛し奉るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。

一、厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。

一、愛善の徳に住するものは天国に昇り、信真の光徳に住するものは霊国に昇るものぞ。

一、このほか天津神八百万坐しませども、皆天使と知るべし、真の神は大国常立大神、又の名は天照皇大神、ただ一柱坐しますのみぞ。

一、国津神八百万坐しませども皆現界における宣伝使や正しき誠の司と知るべし。

一、真の神は、天之御中主大神ただ一柱のみ。故に幽の幽と称え奉る。

一、真の神の変現したまひし神を、幽の顕と称へ奉る、天国における日の大神、霊国における月の大神は何れも幽の顕神なり。

一、一旦人の肉体を保ちて霊界に入り給ひし神を、顕の幽と称え奉る。大国主之大神および諸々の天使および天人の類をいふ。

一、顕界に肉体を保ちて、神の大道を伝え、また現界諸種の事業を司宰する人間を称して、顕の顕神と称へ奉る。

 

而して真に敬愛し尊敬し依信すべき根本の大神は、幽の幽に坐します一柱の大神而已。その他の八百万の神々は、主神の命に依りて各その神務を分掌し給ふものぞ。 愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇らすものは地獄に自ら堕落するものぞ。

 

かく宣り終へたまひて、以前の従神を率ゐて紫の雲に乗り、大空高く月と共に昇らせたまうた。 …後略

 

 

★「宇宙の大道を歩む 川面凡児とその時代」宮崎貞行著 東京図書出版刊を参考にさせて頂きました。